乾正士
乾正士(日语:乾 正士/いぬい せいし Inui Seishi,1868年4月17日—1941年6月18日),本籍日本高知县,为日本明治时代之台湾日治时期邮便电信局书记官,日本士族。
生平
编辑乾正士是日本土佐(今 高知县)藩士板垣退助(乾正形)的次男[1],生母是土佐藩医萩原三圭(Dr. Hagiwara Sankei)的妹妹药子(Yakushi)[2]。
后来成为退助亲属[3],乾正厚(Inui Masahiro)的养子[4]。
他于1895年従军征台之役。是时近卫师团颇有战功。
1897年任台湾总督府东港邮便电信局[5] 书记官[6]。之后,他罹于疟疾,为疗养而归于内地。
他于1901年2月7日婚姻于日本长野县养蚕术研究家 高野成雄(Takano Shigeo)的长姊,高野八重野(Takano Yaeno)[7]。
1917年9月30日受洗于日本高知教会。
1919年2月1日他的长女,乾美世子(Inui Miyoshi)是婚姻于日本福音路德八幡教会牧师,川瀬德太郎(Kawase Tokutaro)。
1937年3月,次女乾朝子与中村清次郎结婚。
1941年6月18日召天。享年74歳。
亲属
编辑参考文献
编辑- ^ 实是庶长子
- ^ 萩原三圭. 谷中・桜木・上野公园 路地里彻底ツアー. [2005-06-05]. (原始内容存档于2014-07-14). (页面存档备份,存于互联网档案馆)
- ^ 乾市郎平家系図. 御侍中先祖书系图牒. 2000-03 [2012-06-08]. (原始内容存档于2014-12-06). (页面存档备份,存于互联网档案馆)
- ^ ‘明治维新人名辞典’吉川弘文馆,1981年
- ^ 管辖今台湾屏东县东港镇等区域。
- ^ 明治30年(1897) 臺灣總督府 東港郵便電信局 乾正士 書記官(629頁). ‘台湾总督府职员录系统’中央研究院 台湾史研究所. 2012-06-12 [2014-12-01]. (原始内容存档于2019-09-14). (页面存档备份,存于互联网档案馆)
- ^ 『養蠶實験眞説』高野成雄著. 北信成蚕社. 1909-02-25 [2014-07-07]. (原始内容存档于2014-12-08). (页面存档备份,存于互联网档案馆)
- ^ ‘御侍中先祖书系图牒’山内侯爵家蔵
- ^ 高岡功(KDDI非常勤顧問・上席理事). KDDI株式会社组织変更及び人事异动について. 2003-04-01 [2014-06-16]. (原始内容存档于2003-07-27). (页面存档备份,存于互联网档案馆)
- ^ 高岡功(KDDI株式会au事業本部au営業本部au関西支社 オペレーションセンター長・(株)エーユー関西支社取締役運用部長). KDDI株式会社组织変更及び人事异动について. 2001-09-28 [2014-06-16]. (原始内容存档于2003-07-27). (页面存档备份,存于互联网档案馆)
- ^ 30代の板垣退助、新写真を公開 子孫が保管 高知. 朝日新闻デジタル. 2012-07-13 [2012-07-14].
- ^ 井深仁司的祖父是満洲国官僚・井深文司『板垣精神 : 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会. 2019-02-11 [2019-08-15]. (原始内容存档于2020-10-30). (页面存档备份,存于互联网档案馆)
- ^ ‘日本キリスト教历史大事典’日本キリスト教历史大事典编集委员会编、教文馆、1988年2月
- ^ 大正10年(1921年)石松量蔵, 鷲山誠晴, 川瀬徳太郎. 日本福音ルーテル教会 教职按手礼・认定 名簿. 2012 [2014-06-15]. (原始内容存档于2018-10-03). (页面存档备份,存于互联网档案馆)
- ^ 風説新聞(第3号). 久留米大学デジタルアーカイブ. 1964-12-20 [2014-06-15]. (原始内容存档于2014-07-14). (页面存档备份,存于互联网档案馆)
- ^ 杉崎光世先生略歴および主要著作目録 (後藤巖教授・大路博美教授・杉崎光世教授退職記念号). 九州国际大学法学论集 6(3) 巻末1-7. 2000-03 [2014-06-25]. (原始内容存档于2019-12-06). (页面存档备份,存于互联网档案馆)