利根號防護巡洋艦
利根號防護巡洋艦(日語:利根/とね Tone ?)是舊日本海軍的防護巡洋艦[3][4],曾經參加了第一次世界大戰,其後長期在中國沿海一帶巡邏。國民革命軍北伐期間本艦一直駐紮在上海進行警戒;1929年在一次航行中曾撞沉了一艘中國帆船。
利根とね | |
---|---|
概觀 | |
艦種 | 防護巡洋艦 |
擁有國 | 大日本帝國 |
艦級 | 利根級防護巡洋艦 |
製造廠 | 日本佐世保海軍工廠 |
下訂 | 1905年度 |
動工 | 1905年11月27日 |
下水 | 1907年10月24日 |
服役 | 1910年5月15日 |
結局 | 1933年4月30日作為靶艦擊沉 |
除籍 | 1931年4月1日 |
技術數據 | |
標準排水量 | 4113噸 |
全長 | 水線長:113.8米 |
全寬 | 14.3米 |
吃水 | 5.12米 |
燃料 | 燃煤900噸,重油124噸 |
鍋爐 | 宮原式煤油混燒鍋爐16座 |
動力 | 垂直三段膨脹式蒸汽引擎2座 2軸推進 |
功率 | 15,000匹馬力(11,000千瓦特) |
最高速度 | 設計:23節(43公里每小時) |
乘員 | 392人[1] |
武器裝備 | 改裝後: 40倍徑單裝6英寸(152公釐)炮2門 40倍徑單裝120公釐(4.7英寸)速射炮10門 單裝76毫米高射炮2門 機槍1挺 457公釐(18英寸)魚雷發射管3具[2] |
裝甲 | 克虜伯滲碳裝甲 甲板傾斜部:76毫米 司令塔:100毫米 |
本艦是佐世保海軍工廠建造的第一艘巡洋艦[1],同時也是日本海軍最後一艘搭載往復式蒸汽機[5]的軍艦[6]。1933年作為靶艦被擊沉。
本艦得名自流經關東地方的利根川[1]。本艦為日本海軍中第一艘以「利根」命名的作戰軍艦(在此前還曾經有兩艘1873年(明治6年)建造的運輸船,也曾名「利根」)[1],日後太平洋戰爭時期的利根號重巡洋艦和戰後日本海上自衛隊的利根號護衛艦相繼繼承了該名。
設計和概述
編輯1905年(明治38年)5月22日,日本海軍從臨時軍事費裡面分配262萬9000日元預算給預定新建的甲號二等巡洋艦,分攤到1905-1908的四年支出里[7]。
本艦的設計師為當時隸屬艦政本部第3部的近藤基樹造船大監(軍階等同於海軍大佐),以當初在英國埃爾斯維克船廠建造的吉野為藍本進行設計[8],因此兩者結構大體相同。動力部分,本艦搭載了兩台三菱四汽缸三段膨脹往復式蒸汽機,由16座宮原式水管鍋爐提供蒸汽,最大速度23節(43公里每小時),在10節(19公里每小時)經濟航速下最大航程為7,400海里(13,700公里)。同時這也是日本海軍中最後一艘使用這種往復式蒸汽機的軍艦。[6]
本艦主炮為兩門40倍徑單裝6英寸(152公釐)速射炮,有炮盾作為防護。主副武器的型號與口徑均與吉野相同;但設計人員為了節省噸位計,削減了6英寸炮數量,只有兩門[9][10]。副武器一開始是安裝了12門40倍徑單裝120公釐(4.7英寸)速射炮;不過最前面兩門副炮的安裝位置有問題,射界很窄,不久有關方面就拆除了這兩門炮,導致副炮總數減少到10門。輕型武器包括4門76毫米6磅炮。在第一次世界大戰後,本艦在第一根煙囪位置加裝了兩挺76毫米高射炮。魚雷武器方面,本艦放棄了音羽等數艦的激進做法,重新配備了魚雷武器,艦上共安裝了3具457公釐(18英寸)魚雷發射管[9]。此外,本艦和日俄戰爭期間新造的軍艦一樣,吸取了春日的艦艏撞角「擊沉」吉野的經驗教訓,捨棄了艦艏的撞角,改為飛箭船式艦艏[9]。
本艦採用了克虜伯滲碳裝甲,裝甲甲板最薄處38毫米,傾斜部分為76毫米。司令塔裝甲厚100毫米。作為典型的防護巡洋艦,本艦沒有舷側裝甲[6]。
艦歷
編輯1905年(明治38年)9月30日,日本海軍內部為這艘預定在佐世保海軍工廠建造的甲號二等巡洋艦暫定名為「利根」[11]。同年11月27日,本艦在佐世保動工興建,這也是佐世保海軍工廠首次進行巡洋艦的建造工程[12][1]。
1907年(明治40年)10月24日,本艦建成下水,時皇太子(日後的大正天皇)出席了下水儀式[13]。同一天日本海軍正式將本艦命名為「利根」[3][14],分類為二等巡洋艦[4][15]。
1910年(明治43年)5月15日,本艦終於竣工[1]。全艦建造過程延宕達5年又5個月,時間拖延得如此之久的其中一個原因是佐世保海軍工廠在此前僅建造過魚雷艇一類的小型軍艦,缺乏建造大型軍艦的經驗;另一個原因是日俄戰爭結束後,日本軍費開支有所收縮,導致造艦經費不足[8]。7月15日,新服役不久的利根編入第一艦隊[16]。同年8月8日,海軍即對剛服役不久的利根進行改裝,擴大無線電通信室,用以裝備四三式無線電裝置[17]。
1911年(明治44年)3月1日 利根轉入第二艦隊[18]。不久有關方面決定派出鞍馬、利根兩艦組成「遣英艦隊」,由島村速雄海軍中將率領前往英國參加英王喬治五世的加冕典禮閱艦式[1]。4月1日編隊從橫須賀出港[19],6月24日參加了閱艦式[1]。此後編隊歷訪歐洲各國,11月22日返回橫須賀[20]。
1912年(大正元年)8月28日,日本海軍修改了艦艇分類,合併原有的二等、三等巡洋艦的區分,將不足7000噸的巡洋艦全部劃分為二等[21]。利根在新分類下依舊為二等巡洋艦[22][23]。
1914年第一次世界大戰爆發,日本參加了協約國一方加入戰爭。8月18日,日本參戰前夕,利根歸屬於第二艦隊第二水雷戰隊[24],作為戰隊司令岡田啟介海軍少將的旗艦,參加了青島戰役[25]。
1915年(大正4年)12月13日,日本海軍打散原有編制,重新編成第一、第二、第三艦隊。利根此時轉入第三艦隊第六戰隊旗下(對馬、新高、利根、明石)[24]。此後在戰爭期間利根輾轉於第一艦隊第一水雷戰隊(旗艦)[26]、第一特務艦隊[27]等編制內,在南海、印度洋等地進行巡邏[1]。
1924年(大正13年)4月1日,利根編入第一遣外艦隊,此後長期駐紮於中國沿海。[28]
1925年(大正14年)12月3日,利根結束在佐世保的維修,出發前往中國。5日返抵青島,並接替對馬成為第一遣外艦隊旗艦。[29]
1926年(大正15年)2月6日,利根離開青島,9日移駐上海。至此日軍第一遣外艦隊主力雲集上海,監視北伐進展。[30]
1927年(昭和2年)3月20日21時,國民革命軍北伐軍逼近上海新龍華,21日01時直魯軍撤退。當天白天上海各界舉行第二次總同盟罷工。租界各國認為有「南軍便衣隊」在上海附近活動,為控制局勢,決定以海軍陸戰隊進行威懾。13:30美國駐華艦隊旗艦匹茲堡號首先開始進行登陸行動,稍後利根(第一遣外艦隊旗艦)等日艦也開始出兵,至15時日本陸戰隊已經就位。同時日軍接報稱浦東一帶出現打著青天白日旗的便衣隊,利根、川內、天龍等各艦也緊急派出預備隊前往浦東。22日直魯軍潰軍在租界各國軍隊調停下陸續解除武裝。23日上海總工會召開歡迎北伐軍大會,並向北伐軍請願收回租界;留在上海的各國人士以為國民政府準備武力收復租界,開始出現避難潮,各國繼續加派人員,日軍也加派至1700餘人。24日發生南京事件,日本開始從漢口撤僑前往上海,而局勢緊張期間利根等日本大型軍艦一直停駐於上海。[31]
1929年(昭和4年)9月7日10:30,利根從吳淞出發返回上海,12:27在上海港附近與一艘中國帆船相撞,導致該帆船沉沒,船上4男1女3名兒童落水。附近的小船以及水上警察署等立即進行救助,將落水者全部救上岸。日方聲稱在本次事件中利根並無過錯[32]。但日方考慮到船主損失了船隻以及所搭載的全部貨物,生活窮困,值得同情;同時日方指出可以利用本次事件應對各地的廢約促進會等。因此日方非但沒有索取賠償,還贈予了船主450日元的撫恤金[33]。11月30日,利根返回佐世保,轉入預備艦隊。
1931年(昭和6年)4月1日,日本海軍將利根從海軍中除籍[1],同一天從艦艇類別等級表中除名[34]。當天包括利根在內的3艘老舊軍艦(利根、築摩、阿蘇)改列為廢棄艦[35],利根的艦名也更改為「第2號廢棄艦(日語:廃艦二號)」[36]。
1933年(昭和8年)4月30日,日本海軍在奄美大島附近,對第2號廢棄艦(原利根)進行了俯衝轟炸和艦炮射擊,將其擊沉。[37]
歷任艦長
編輯下表系根據《日本海軍史》第9、10卷《将官履歴》,以及《官報》進行整理。
- 臼井幹藏 海軍大佐:1909年9月15日 - 1910年6月25日 *兼佐世保海軍工廠艤裝員(- 1910年6月3日)
- 森義臣 海軍大佐:1910年6月25日 - 12月1日
- 片岡榮太郎 海軍大佐:1910年12月1日 - 1911年1月16日
- 山口九十郎 海軍大佐:1911年1月16日 - 11月20日
- 竹內次郎 海軍大佐:1911年11月20日 - 1912年12月1日
- 西尾雄治郎 海軍大佐:1912年12月1日 - 1913年4月1日
- 佐藤皐藏 海軍大佐:1913年4月1日 - 5月24日
- 原篤慶 海軍大佐:1913年5月24日 - 12月1日
- 武部岸郎 海軍大佐:1913年12月1日 -
- 吉川安平 海軍大佐:1914年12月1日 - 1915年12月13日
- 古川弘 海軍大佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日
- 石川秀三郎 海軍大佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
- 福田一郎 海軍大佐:1917年12月1日 - 1918年11月10日[38]
- (暫代)關干城 海軍中佐:1918年11月10日 - 12月1日
- 關干城 海軍大佐:1918年12月1日 - 1919年12月1日
- 常松憲三 海軍大佐:1919年12月1日[39] - 1920年12月1日[40]
- 園田繁喜 海軍大佐:1920年12月1日[40] - 1921年11月1日[41]
- 八角三郎 海軍大佐:1921年11月1日 - 1922年5月30日
- 森田登 海軍大佐:1922年5月30日[42] - 12月1日[43]
- 巨勢泰八 海軍大佐:1922年12月1日 - 1923年11月10日
- (暫代)小林省三郎 海軍中佐:1923年11月10日 - 12月1日
- 小林省三郎 海軍大佐:1923年12月1日 - 1925年4月15日
- 高木平次 海軍大佐:1925年4月15日[44] - 10月20日[45]
- 鈴木秀次 海軍大佐:1925年10月20日[45] - 1926年8月20日[46]
- 植松練磨 海軍大佐:1926年8月20日 - 1927年4月5日
- 中村龜三郎 海軍大佐:1927年4月5日 - 11月15日
- 藤澤宅雄 海軍大佐:1927年11月15日[47] - 1928年12月10日[48]
- 波多野二郎 海軍大佐:1928年12月10日[48] - 1929年11月30日[49]
- 佐藤康逸 海軍大佐:1929年11月30日 - 1930年12月1日
注釋
編輯- ^ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 #幕末以降帝國軍艦寫真と史実コマ86(原本135頁)『利根(とね) 艦種二等巡洋艦 二檣(信號用)
艦名考川名に採る、關東第一の大河なり。
艦歴明治38年11月27日佐世保工廠に於て起工、同40年10月24日進水、同43年5月5日竣工、佐世保海軍工廠にて建造せられたる最初の軍艦なり。同44年4月1日橫須賀發、英國皇帝戴冠式に際し6月24日「スピットヘッド」に於て擧行せらるべき觀艦式參列の爲め鞍馬と共に英國に回航(第二艦隊司令長官中將島村速雄引率、艦長大佐山口九十郎)。大正3年乃至9年戰役(日獨)に從軍:同3年8月青島戰に參加(第二水雷戰隊司令官少將岡田啓介旗艦、艦長大佐武部岸郎)、同4年12月第二艦隊第六戰隊に屬し、南支那海・印度洋方面警備(艦長大佐古川弘)。昭和6年4月1日除籍。同8年4月實艦的として爆撃戰技に依つて撃沈さる。
(備考)明治6年橫須賀造船所にて建造せらる運送船に第一、第二利根川丸(後に「利根」と改稱)のものあり。
―要目― 長403呎/幅47呎/吃水16.75呎/排水量4,100噸/機關 三聯成汽機2基、宮原式16臺/馬力15,000/速力23/乗組人員392/船材 鋼/兵裝 15拇砲2/12拇砲10/8拇砲2/機砲2/發射管3/起工 明治38-11-27/進水 同40-10-24/竣工 同43-5-15/建造所 佐世保工廠』 - ^ 海軍省,#海軍研究資料別冊
- ^ 3.0 3.1 #達明治40年10月p.23『達第百二十號 佐世保海軍工廠ニ於テ製造ノ甲號二等巡洋艦ヲ利根ト命名セラル 明治四十年十月二十四日 海軍大臣男爵 齋藤實』
- ^ 4.0 4.1 #達明治40年10月p.23『達第百二十一號 艦艇類別等級別表中巡洋艦ノ欄二等ノ下「宗谷」ノ次ニ「利根」ヲ加フ 明治四十年十月二十四日 海軍大臣男爵 齋藤實』
- ^ 引用錯誤:沒有為名為
蒸汽機
的參考文獻提供內容 - ^ 6.0 6.1 6.2 Chesneau, Conway's All the World's Fighting Ships, 1860–1905, page 236
- ^ #軍艦利根製造一件, p. 1197
(按,本文件在防衛省防衛研究所登記的文件名有誤,文件封面的正確名字是《軍艦利根製造一件》,但防衛省防衛研究所搜索得到的文件名為《軍艦利用製造一件》。) - ^ 8.0 8.1 "Japanese cruisers of the Pacific War", p. 4
- ^ 9.0 9.1 9.2 造船協會,#日本近世造船史(1911年版),315
- ^ "Japanese cruisers of the Pacific War", p. 7
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ199『◎二等巡洋艦利根及通砲艦淀命名ノ件 明治三十八年九月三十日(內令五六〇)新造軍艦二隻艦名左ノ通御治定相成候條命名式擧行マテ部內限リ通用スルコトヲ得ル儀ト心得ヘシ|佐世保海軍工廠ニ於テ製造 甲號二等巡洋艦 利根|神戸川崎造船所ニ於テ建造 第一號通報艦 淀』
- ^ #幕末以降帝國軍艦寫真と史実コマ238(原本84頁)『一、佐世保にて初めて巡洋艦を起工す―明治三十八年(一九〇五)巡洋艦「利根」起工』
- ^ 明治40年10月25日官報第7298號。國立國會図書館デジタルコレクション コマ5『○東宮臨御 皇太子殿下ハ昨二十四日佐世保軍港ニ於ケル軍艦利根進水式ニ臨マセラレタリ』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ200『◎二等巡洋艦利根命名ノ件 明治四十四年十月二十四日(達一二〇)佐世保海軍工廠ニ於テ製造ノ甲號二等巡洋艦ヲ利根ト命名セラル』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ55『明治四十四年十月二十四日(達一二一)艦艇類別等級別表中巡洋艦ノ欄二等ノ下「宗谷」ノ次ニ「利根」ヲ加フ』
- ^ #海軍制度沿革(巻4、1939),p. 23 內令一四七
- ^ #造修2止(4), pp. 878-888
- ^ #海軍制度沿革(巻4、1939),p. 23 內令一九
- ^ 明治44年4月5日官報第8332號。國立國會図書館デジタルコレクション コマ8『○軍艦發箸 各港灣ニ於ケル軍艦發箸左ノ如シ(海軍省)』
- ^ 「思い出の日本軍艦 訪歐時の「鞍馬」と「利根」」 『世界の艦船』第607集(2003年2月號) 海人社
- ^ #達大正1年8月p.32『達臺十一號 艦艇類別標準別表ノ通改正セラル 大正元年八月二十八日 海軍大臣男爵齋藤實』
- ^ #達大正1年8月p.32『達第十一號 艦艇類別標準別表ノ通改正セラル 大正元年八月二十八日 海軍大臣男爵 斎藤實(別表)』
- ^ #達大正1年8月pp.33-34『達第十二號 艦艇類別等級別表ノ通改正ス 大正元年八月二十八日 海軍大臣男爵 斎藤實(別表)|軍艦|巡洋艦|二等|笠置、千歳、津軽、宗谷、利根、築摩、平戸、矢矧、須磨、明石、新高、對馬、音羽|』
- ^ 24.0 24.1 #海軍制度沿革(巻4、1939),p. 26
- ^ 章騫,#無畏之海,p. 94
- ^ #海軍制度沿革(巻4、1939),pp. 28, 30
- ^ #海軍制度沿革(巻4、1939),p. 29
- ^ #海軍制度沿革(巻4、1939),p. 40
- ^ #海軍公報大正14年12月(1)
- ^ #海軍公報大正15年2月(1)
- ^ #第1遣外艦隊3(1)、#第1遣外艦隊3(2)、#第1遣外艦隊3(3)、#第1遣外艦隊3(4)
- ^ #軍艦利根支那帆船衝突事件報告
- ^ #軍艦利根支那帆船衝突事件解決の件報告
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ67『昭和六年四月一日(內令五三)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 軍艦ノ部巡洋艦ノ項中「| |利根|」及「築摩、」ヲ、航空母艦ノ項中「若宮、」ヲ、敷設艦ノ項中「阿蘇、」ヲ削ル』
- ^ 第559号8.2.8廃艦第2号(旧軍艦利根)曳航準備工事の件. 亞洲歷史資料中心 (日語).
- ^ 昭和6年4月1日(水)海軍公報(部内限)第992号 p.1. 亞洲歷史資料中心 (日語).『官房第一〇六七號 當分ノ間除籍艦ヲ左ノ通假稱シ部內限之ヲ使用ス 昭和六年四月一日 海軍大臣|舊軍艦利根ヲ廃艦二號トス 舊軍艦築摩ヲ廃艦三號トス 舊軍艦阿蘇ヲ廢艦第四號トス』
- ^ #高松宮日記2巻72頁『四月三十日 廃艦射撃の日あれば「むつ」へ見學にゆく。天候不良で雲ひくしウネリは少しへつた。四戦隊、五戦隊の三〇キロ爆撃、三戦隊の射撃、予定通り。そのころから雨になり、時〃やむ。中々1sf(第一航空戦隊)の爆撃はじまらず。やつと発艦さしたが低くてうまくゆかず、やつと始めたら最初の一発で浸水しはじめ、了らぬ內に沈む。七時半ごろかへる。』
- ^ 『官報』第1883號、大正7年11月12日。
- ^ 『官報』第2199號、大正8年12月2日。
- ^ 40.0 40.1 『官報』第2501號、大正9年12月2日。
- ^ 『官報』第2776號、大正10年11月2日。
- ^ 『官報』第2947號、大正11年5月31日。
- ^ 『官報』第3102號、大正11年12月2日。
- ^ 『官報』第3792號、大正14年4月16日。
- ^ 45.0 45.1 『官報』第3948號、大正14年10月21日。
- ^ 『官報』第4199號、大正15年8月21日。
- ^ 『官報』第266號、昭和2年11月16日。
- ^ 48.0 48.1 『官報』第587號、昭和3年12月11日。
- ^ 『官報』第878號、昭和4年12月2日。
參考文獻
編輯- Chesneau, Roger. Conway's All the World's Fighting Ships, 1860–1905.. Conway Maritime Press. 1979. ISBN 0-85177-133-5.
- Jentsura, Hansgeorg. Warships of the Imperial Japanese Navy, 1869-1945. Annapolis, MD: Naval Institute Press. 1976. ISBN 0-87021-893-X.
- Spencer Tucker, Priscilla Mary Roberts. World War I: encyclopedia. ABC-CLIO. ISBN 1-85109-420-2.
- 海軍歴史保存會『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 雑誌「丸」編集部『寫真 日本の軍艦 第5巻 重巡I』(光人社、1989年) ISBN 4-7698-0455-5
- 福井靜夫. 福井静夫著作集第4巻 日本巡洋艦物語. 光人社. 1992. ISBN 4-7698-0610-8.
- 高松宮宣仁親王著; 嶋中鵬二 発行人. 高松宮日記 第二巻 昭和八年一月一日~昭和十二年九月二十六日. 中央公論社. 1995年6月. ISBN 4-12-403392-3.
- 『官報』
- 國立國會図書館デジタルコレクション(頁面存檔備份,存於網際網路檔案館) - 國立國會図書館
- 海軍文庫. 大日本帝国軍艦帖. 共益商社書店. 1894 [2022-08-17]. (原始內容存檔於2022-05-08).
- 海軍大臣官房 (編). 海軍軍備沿革. 海軍大臣官房. 1922 [2022-08-17]. (原始內容存檔於2020-11-15).
- 海軍大臣官房. 海軍制度沿革. 巻4(1939年印刷). 海軍大臣官房. 1939 [2017-09-11]. (原始內容存檔於2021-05-07).
- 海軍大臣官房. 海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷). 海軍大臣官房. 1940 [2017-09-11]. (原始內容存檔於2021-05-07).
- 海軍大臣官房. 海軍制度沿革. 巻11(1940年印刷). 海軍大臣官房. 1940 [2017-09-11]. (原始內容存檔於2021-09-05).
- 海軍有終會編 (編). 幕末以降帝国軍艦写真と史実. 海軍有終會. 1935 [2017-09-11]. (原始內容存檔於2019-01-07).
- 海軍省 (編). 海軍研究資料. 別冊. 海軍省. 1929 [2022-08-17]. (原始內容存檔於2019-08-20).
- 造船協會. 日本近世造船史. 弘道館. 1911 [2022-08-17]. (原始內容存檔於2019-06-03).
- アジア歴史資料センター(公式)(頁面存檔備份,存於網際網路檔案館)(防衛省防衛研究所)
- 第1遣外艦隊3(1). Ref.C04015654500.
- 第1遣外艦隊3(2). Ref.C04015654600.
- 第1遣外艦隊3(3). Ref.C04015654700.
- 第1遣外艦隊3(4). Ref.C04015654800.
- 軍艦利根支那帆船衝突事件報告. Ref.C04016970500.
- 軍艦利根支那帆船衝突事件解決の件報告. Ref.C04016970600.
- 造修 2止(4). Ref.C06092318700.
- 軍艦利根製造一件. Ref.C06092319300.資料庫搜索時的文件名為「軍艦利用製造一件」
- 明治40年 達 完/11月. Ref.C12070056500.
- 大正1年 達 完/8月. Ref.C12070064400.
- 大正12年 達完/9月. Ref.C12070082500.
- 大正14年12月(1). Ref.C12070300000.
- 大正15年2月(1). Ref.C12070302400.
- 王佐榮 (編). 联合舰队的黎明:明治、大正时期日本海军舰艇图集. 武漢大學出版社. 2016年11月. ISBN 978-7-307-18837-2.
- 章騫. 无畏之海:第一次世界大战海战全史. 山東畫報出版社. 2013年7月. ISBN 978-7-5474-0541-3.
相關條目
編輯