板桥藩
板桥藩(日语:板橋藩/いたばしはん Itabashi-han */?)是位于日本下野国都贺郡板桥(现栃木县日光市板桥)的藩,庆长5年(1600年)创藩,元和3年10月5日(1617年11月3日)废藩,石高是10,000石,藩厅是板桥城[1][2]。
板桥藩 | |
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日语汉字 | 板桥藩 |
平假名 | いたばしはん |
罗马拼音 | Itabashi-han |
创藩日期 | 庆长5年(1600年) |
创藩理由 | 加增 |
所在地 | 日本下野国都贺郡板桥 |
藩厅 | 板桥城 |
大名家 | 大给松平家 |
石高 | 10,000石 |
废藩日期 | 元和3年10月5日(1617年11月3日) |
废藩理由 | 转封 |
历史
编辑庆长5年(1600年),松平近正在伏见城之战战死,其子松平一生继承其原本领有的上野国群马郡三藏(现群马县高崎市仓渊町三之仓[3])5,500石[1]。关原之战后,一生凭其父的战功获加增至板桥10,000石。庆长7年(1602年),一生在水户佐竹氏转封时担任水户城的城番,协助平定佐竹氏旧臣的叛乱[4]。庆长9年4月25日(1604年5月23日),一生死去[5],由其子松平成重继位[1]。
元和3年10月5日(1617年11月3日)[6],成重凭自身在大坂夏之阵的战功获加增至三河西尾20,000石,板桥藩就此废藩[4]。板桥藩的藩领根据《今市市史》引述在明治10年代的《地志编辑材料取调书》,推测涵盖18村,总计石高约3,800石,大部分划入下总山川藩,推测这是由于当时正值兴建日光东照宫的时期。明历元年(1655年),大猷院庙领3,600石划入至东照宫领,原板桥藩领此后也就成为日光东照宫的领地[1]。
历任藩主
编辑大名家 | 家格 | 藩主 | 石高 | 藩领 |
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大给松平家 | 谱代 城持 |
松平一生 | 10,000石 | 下野国都贺郡和河内郡 |
松平成重 |
领地
编辑令制国 | 郡 | 领地 |
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下野国 | 都贺郡 | 今市村、濑川村、平崎村(平ケ崎村)、濑尾村、千本木村、室濑村、下之内村(下ノ内村)、吉泽村、土泽村、板桥村、文挟村、岩崎村、小代村、小仓村 |
河内郡 | 轰村、町谷村、大渡村、盐野室村 |
参考资料
编辑- ^ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 佐藤权司. 板橋藩. 木村础、藤野保、村上直 (编). 藩史大事典 関東編 2 POD版. 雄山阁. 2002-04-15: 193–194. ISBN 4-639-10036-1 (日语).
- ^ 2.0 2.1 2.2 竹内理三、北原进、杉山博、竹内诚、所理喜夫、西垣晴次、大町雅美、小西四郎、长仓保、峰岸纯夫 (编). 板橋藩・轟・町谷・大渡・塩野室・今市・瀬川村・平ヶ崎・瀬尾・千本木・室瀬・下ノ内・吉沢・土沢・板橋・文挟・岩崎・小代・小倉. 角川日本地名大辞典 栃木県. 角川日本地名大辞典 9 日本文学Web図書館. 角川书店. 1984-12-08. ISBN 4-040-01090-6 (日语).
- ^ 竹内理三、北原进、杉山博、竹内诚、所理喜夫、西垣晴次、井上定幸、近藤义雄、山田武麿 (编). 三ノ倉. 角川日本地名大辞典 群馬県. 角川日本地名大辞典 10 日本文学Web図書館. 角川书店. 1988-07-08. ISBN 4-040-01100-7 (日语).
- ^ 4.0 4.1 秋本典夫. 板橋藩. 坂本太郎、关晃、臼井胜美、大石慎三郎、加藤友康、菊地勇次郎、笹山晴生、濑野精一郎、高村直助、土田直镇、鸟海靖、早川庄八、尾藤正英、福田丰彦、丸山雍成、皆川完一、安田元久、由井正臣 (编). 国史大辞典. 国史大辞典 1 JapanKnowledge (吉川弘文馆). 1979-03-01. ISBN 978-4-642-00501-2 (日语).
- ^ 松平一生. kotobank (日语).
- ^ 加藤富雄. 西尾藩. 木村础、藤野保、村上直 (编). 藩史大事典 中部編Ⅱ 東海 4 POD版. 雄山阁. 2002-04-15: 333. ISBN 4-639-10038-8 (日语).