畝傍號防護巡洋艦
畝傍号防护巡洋舰(日语:畝傍/うねび unebi ?)是旧日本海軍的外购防护巡洋舰(二等巡洋舰)[2],为日本向法国卢瓦尔阿特利耶和尚提耶公司所订购,这也是日本第一艘购自法国的军舰。本舰级只有单艘,因此本舰级也称为畝傍级防护巡洋舰(日方称为“畝傍型防護巡洋艦”)。
畝傍 うねび | |
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概觀 | |
艦種 | 防护巡洋艦 |
擁有國 | 大日本帝国 |
艦級 | 畝傍级防护巡洋舰 |
製造廠 | 卢瓦尔阿特利耶和尚提耶公司勒阿弗尔造船厂 |
下訂 | 1883年财年 |
動工 | 1884年5月27日 |
下水 | 1886年4月6日 |
服役 | 1886年10月18日 |
結局 | 1886年12月3日从新加坡离港后失踪[1] |
除籍 | 1887年10月19日[1] |
技术数据 | |
標準排水量 | 3,615長噸(3,673公噸) |
全長 | 艦體全長:98.0米 |
全寬 | 13.1米 |
吃水 | 5.7米 |
燃料 | 满载:燃煤700吨 |
鍋爐 | 燃煤专烧圆形锅炉9座 |
动力 | 直立型往复式蒸汽引擎2座 2軸推進 |
功率 | 5,500匹指示馬力(4,100千瓦特) |
最高速度 | 18.5節(34公里每小時) |
乘員 | 280-400人 |
武器裝備 | 克虏伯35倍径单装240毫米炮4门 克虏伯35倍径单装150毫米炮7门 哈奇开斯57毫米单装6磅速射炮2门 諾典飛爾德4联装25毫米机关炮10座 諾典飛爾德11毫米10联装机枪4座 356毫米(14.0英寸)单装魚雷發射管4具 |
裝甲 | 上部水线带:125毫米 甲板倾斜部:62毫米 炮座、副炮炮廓:150毫米 |
本舰作为对清朝的战争准备之一,完工后即起锚返回日本,然而却在返航途中,从新加坡出港后即告失踪。事后日本方面多方搜寻无果,只能将本舰除籍[3][1]。
本舰舰名来源于奈良县的畝傍山[4]。在日本海军的正式名称为“畝傍舰(日语:畝傍艦)”[5]。除了“畝傍”一名外,候补名字还有“蜻蛉(日语:蜻蛉(あきつ))”、“磐余(日语:磐余(いわれ))”
设计和概述
编辑十九世纪80年代开始,为了应对日本与清朝之间日趋紧张的关系,时任海军卿川村純義海军中将提议增购军舰。1883年(明治16年)2月24日,海军卿川村純義海军中将提交的海军扩张八年计划提案,希望从1883年度开始陆续新造“大舰”5艘,预计花费750万日元[6]。经过一番修改,最终敲定于明治16-18年度建造“大舰”3艘[7]。其中两艘即为英国承建的浪速级(浪速、高千穗),第三艘则为本舰[8]。
本舰外观上依然是旧式的机帆船模样,有3根桅杆,不过安装有着防护甲板,因此依然可以算作是防护巡洋舰。用蒸汽机航行时最大航速18.5节。
本舰主要武装为克虏伯35倍径单装240毫米炮4门、克虏伯35倍径单装150毫米炮7门。轻型火力包括哈奇开斯57毫米单装6磅速射炮2门,諾典飛爾德4联装25毫米机关炮10座,以及諾典飛爾德11毫米10联装机枪4座。鱼雷武装则为4具356毫米(14.0英寸)鱼雷发射管。
本舰比起日本同时订购的浪速、高千穗两舰,本舰舰体更窄,却搭载了更多的大口径火炮。
舰历
编辑1884年(明治17年),日本方面向法国下达造舰订单,造价153万日元。同年5月27日,本舰在勒阿弗尔造船厂开始动工[4]。同年6月5日,日本海军将本舰正式命名为“畝傍”[2][9]。
1886年(明治19年)4月6日,本舰下水[10]。同年10月18日,畝傍在法国人舰长指挥下,从勒阿弗尔出发返回日本[11][4]。日本方面返航委员为飯牟礼俊位海军大尉等人[12]。同时舰上还有若干在日法国人家属、以及造船公司70余名员工同乘。同年12月3日,本舰离开新加坡,原本预定于12月14-15日抵达橫濱港[4][13]。但此后本舰即于南海失踪[14]。
同年12月下旬,日本派出扶桑、海门两舰前往土佐湾至八丈島一带进行搜索[13];此外也有多艘外国舰船协助搜索工作[15][16][17][18]。然而搜索工作毫无进展,本舰已经彻底失踪[4][19]。全舰乘员90余人全部下落不明。
1887年(明治20年)10月19日,日本方面认定本舰已经损失[4][14]。
由于这一事故,日本方面对法方的设计非常不满,遂取消了本级原定的后续舰秋津洲在法国的建造事宜,而聘用英国人员进行重新设计、并在英国进行建造[20]。另外,日本方面获取了船只保险赔偿124万5300日元,随后用这笔钱购买了另一艘军舰千代田[21]。
事故后本舰的建造尾款还有剩余,因为日本方面并不急用,而法国方面也想取得这笔资金,于是用这笔款项为日本建造了一艘鱼雷炮舰千岛。然而炮舰千岛似乎也继承了本舰的噩运,1892年(明治25年)11月30日返航途中,在瀨戶內海与一艘英国商船发生碰撞沉没,舰上乘员74人死于事故,此即轰动一时的千岛号事件[22][23][24]。
本舰为日本海军第一次使用“畝傍”这个名字的军舰,但由于事故的阴影,人们认为这个名字不吉利,故日本海军此后再无使用这个名字的军舰。
失踪原因
编辑畝傍采用了典型的法国式设计,船体舷侧内倾,因此甲板非常狭窄;这一因素再加上高大的上层建筑使高度与重量比很大,使得整舰的复原性(指船受浪搖晃傾斜後能迅速平衡的功能) 很差,这也算是法式设计固有的弊端了[25]。再加上本舰三根高耸的桅杆,以及舰上大量搭载的武器,使得复原能力不足的情况进一步恶化,导致本舰很有可能在南海遭遇到比设计时还要更为猛烈的台风时倾覆沉没[26]。即使没有遇到台风,本舰在急速转舵时也可能造成倾斜度过大的情况,如果在这期间遇到横向的波浪的话,就很容易翻转沉没。不管具体情况如何,这种糟糕的复原性,是日本海军最终放弃了法式设计、并取消了后续舰艇建造的一个重要原因[20]。
另一方面对比来看,1954年(昭和29年)5月,也是在南海一带,一个此前比较弱的熱帶氣旋急剧发育成为强劲的3号台风,并导致辰和丸失事,之后有关方面进行的大规模搜索也是两手空空,而且也是连一点漂浮物之类的都没有发现。南海以及低纬度洋面上即使是在冬季也经常会发生台风,而在当时远洋气象观测体系还极为欠缺,在远离陆地的海上经常有大量的台风生成又散去,当时的人类大多对具体情况无从得知,因此本舰在海上遇到同样的灾难也是很有可能的。
不过一般来说船只失事后,多少总能找到点什么;而本舰失踪后,搜救队伍却连一点漂浮物都找不到。因此事件发生后出现了五光十色的言论,诸如“畝傍漂流到了南洋的某个无人岛上并进行修理”[27],抑或“海盗夺取了畝傍并且拿来当作海盗船”[28],甚至还有“畝傍已经被清国军舰击沉”之类的说法[29],种种奇谈怪论不一而足[27][30]。当时的冒险小说作者押川春浪甚至在其发表的小说中写到,其实西鄉隆盛并没有在西南戰爭中死去,而是登上了畝傍前往西伯利亚冒险去了[27]。后来又有传闻说是本舰其实已经为俄国海军所捕获,这种传闻在日俄战争期间进一步发酵,演变成了“俄国人捕获畝傍后,将本舰作为波羅的海艦隊的一员正在向日本杀来”的传说。
注释
编辑- ^ 1.0 1.1 1.2 #明治の海軍物語コマ55(原本93)『明治二十年十月十九日軍艦畝傍が支那海に於て亡没せるものと認定され、大センセーションを起した。同艦は佛國フォルヂ・エー・シヤンチエー社で建造された三千六百十五噸の巡洋艦で、明治十九年四月進水、同年十月竣工、十月十八日佛國を發し、本邦への回航の途中、十二月三日新嘉坡出港以後其の行衛が不明になつたのであつた。』
- ^ 2.0 2.1 #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ197『◎軍艦畝傍命名ノ件 明治十七年六月五日(丙九〇)今般佛國注文セシ軍艦ヲ
畝 傍 ト命名ス此旨爲心得相達候事』 - ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ237(原本82頁)『一、初めて軍艦を佛國に註文す―明治十七年(一八八四)「畝傍」ヲ註文し、明治十九年竣工、本邦への回航途次「シンガポール」出發後行衛不明トナル』
- ^ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 #幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ31(原本35頁)『傍畝(うねび) 艦種巡洋艦 三檣「バーク」 艦名考山名に採る、畝傍山は大和國高市郡に在り、白橿村の中央に起る一座の丘陵にして他に連接せず、土俗之を慈明寺山と呼ぶ、此地神武天皇創國の皇居(橿原宮)の在しり所なるを以て人口に膾炙す、今畝傍山の東南に橿原神宮、東北に神武天皇御陵あり。
艦歴明治19年4月佛國にて進水、同年10月18日佛國を發し本邦への回航の途中、12月3日、新嘉坡投錨以後其の踪跡不明と爲り、遂に同20年10月19日に至り、亡没せるものと認定せられたり。
―要目― 長322呎/幅43呎/吃水918呎6吋/排水量3,615噸/機關 汽雙螺旋/馬力5,500/速力17.5/乗組人員 /船材 鋼/兵装 24拇克砲 4/15拇克砲 7/機砲 8/6听速射砲 2/發射管4/起工 明治17-5-27/進水 同19-4/竣工 同19-10/建造所 佛國フォルヂ・エー・シャンチェー社』 - ^ 明治20年10月19日官報第1293号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『○海軍省告示第四號 畝傍艦昨年十二月三日横濱ニ向ヒ新嘉坡解纜以來踪跡ヲ得サルニ依リ亡没シタルモノト認定シ乗員モ亦死失ト見做シ之カ處分ヲ爲ス 明治二十年十月十九日 海軍大臣伯爵西郷從道』
- ^ #海軍軍備沿革,p. 9
- ^ #海軍軍備沿革,p. 11
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ22『明治十七年 一月小野濱造船所ヲ神戸ニ設置シテ主船局ノ所管トシ艦船ノ製造修理ヲ行ハシメラル(二十三年三月止)/此ノ年畝傍ノ製造ヲ佛國ニ註文シ浪速及高千穂ヲ英國ニテ、武藏ヲ横須賀造船所ニテ起工シ第二、第三、第四水雷艇竣工ス/同年十一月十八日外國ヘ註文セル軍艦ノ本邦廻航ニ關スル事務ハ主船局ニ、其ノ乗員ニ關スル主務ハ軍事部ニ各所掌ヲ定ム』
- ^ #海軍省畝傍命名p.1『六月五日 海軍省佛國ニ於テ新造ノ巡洋艦ニ名ヲ命ス』
- ^ 月曜会記事 第17号 明治19年11月印刷(3)p.1. 亞洲歷史資料中心 (日语).『新艦畝傍號(略)畝傍號ハ日本政府ノ注文ニ由リ地中海鍛鉄造舩會社ノ製造セル所ニシテ本年四月六日其進水式ヲ行ヒタリ(以下略)』
- ^ 明治19年10月23日官報第996号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ2『○軍艦發着 畝傍艦ハ去ル十八日佛國ヲ出艦セリ(海軍省報告)』
- ^ #明治文明綺談コマ86-87(原本159-160頁)『明治の紀聞』
- ^ 13.0 13.1 明治20年3月2日官報第1098号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『○畝傍艦捜索顛末』
- ^ 14.0 14.1 #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ22『明治十九年 軍艦畝傍佛國ヨリ囘航ノ途次十二月二十五日新嘉坡ヲ出港後踪跡不明トナル(二十年十月十九日亡没ト認定ス)此ノ年起工セラレタルモノハ満珠、干珠、鳥海、愛宕、高雄及赤城ニシテ竣工ヲ見タルハ前記畝傍ノ外浪速及高千穂ナリ』
- ^ 明治20年3月3日官報第1099号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『○畝傍艦捜索顛末(昨二日ノ續)』
- ^ 明治20年3月4日官報第1100号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『○畝傍艦捜索顛末(昨三日ノ續)』
- ^ 明治20年3月7日官報第1102号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3-4『○畝傍艦捜索顛末(一昨五日ノ續)』
- ^ 明治20年3月8日官報第1103号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3-4『○畝傍艦捜索顛末(一昨七日ノ續)』
- ^ #S05、海軍写真帖コマ29『軍艦龍驤と畝傍』
- ^ 20.0 20.1 #日本巡洋艦物語284-285頁『なぜ一隻のみで終わったか』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ22『明治二十年 畝傍ノ保險金一,二四五,三〇九圓ノ収入ニヨリ其ノ代艦トシテ千代田ノ製造ニ着手シタル外、八重山及水雷艇小鷹ヲ起工シ葛城及大和ヲ竣工ス』
- ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ223(原本55頁)『同(明治)二五・一一・三〇|軍艦千鳥、愛媛縣堀江沖ニテ英船「ラヴェンナ」號ト衝突沈没ス』
- ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ39(原本51頁)『千島(ちしま) 艦種砲艦 三檣「スクーナー」型 艦名考地名(北海道千島)に採る。艦歴明治25年4月1日佛國にて竣工、同月佛國出發、同年11月24日長崎着、同月30日愛媛縣堀江沖に於て英國商船ラベンナ號と衝突沈没。
―要目― 長233呎/幅25呎6吋/吃水9呎6吋/排水量750噸/機關 汽雙螺旋/馬力5,000/速力22/乗組人員99/船材 鋼/兵装 速射砲11/起工 明治23-1-29/進水 同23-11-26/竣工 同25-4-17/建造所 佛國ロワールール社』 - ^ #明治の海軍物語コマ64-65(原本111-112頁)
- ^ #明治文明綺談コマ92-93(原本170-172頁)『畝傍の行方の巷説』
- ^ #明治文明綺談コマ88-90(原本163-167頁)『國民の落膽』
- ^ 27.0 27.1 27.2 #明治文明綺談コマ88(原本162-163頁)『三年の日子を費ひ、百六十萬弗といふ大金を支拂ふ新鋭艦であつてみれば、國民がその行方不明に對して、どうしても諦めきれなかつた氣持は、想像出來るのである。畝傍艦は南洋の孤島に漂着して、そこで故障の修理をしてゐるのだらうと考へるのは、一番無理のない所であらう。/大分昔になる押川春浪が冒險小説を書いて、大いに當時の中學生などを熱狂させたものだが、その中には盛んに此の行方不明になつた「畝傍」が現れてきて、劍侠美女をのせて活躍してゐる。「畝傍」はやはり南洋方面の無人島にかくれてゐて、謎の軍艦として支那海を暴れ廻り、日本に仇なすものをやつゝけるのである。/同じくこれらの小説の中には、城山で戰死したと思はれた西郷隆盛が生きてゐて、怪人としてシベリアを舞臺に活躍するのである。/畝傍艦と云ひ西郷隆盛と云ひ、明治時代に生を享けた人間にとつては、そのまゝで忘れられるのは惜しくてならないのである。/押川春浪が書いたのは空想小説で、傳説ではないが、これは一種の「英雄不死傳説」であり、讀者にうけるわけだつたのである。』
- ^ #幼年冒険小説集コマ10-11(原本2-4頁)『〔一〕噂の幽霊船』
- ^ #幼年冒険小説集コマ14-15(原本10-12頁)『〔四〕恨みは長し畝傍艦』
- ^ #明治文明綺談コマ90-92(原本167-170頁)『畝傍の行方の巷説』
参考文献
编辑- 日本巡洋艦史(『世界の艦船』2012年1月号増刊、海人社)
- 福井静夫. 日本巡洋艦物語 福井静夫著作集/第四巻-軍艦七十五年回想記. 光人社. 1992年10月. ISBN 4-7698-0610-8.
- 国立国会図書館デジタルコレクション (页面存档备份,存于互联网档案馆) - 国立国会図書館
- 海軍文庫. 大日本帝国軍艦帖. 共益商社書店. 1894年10月 [2017-05-15]. (原始内容存档于2022-05-08).
- 海軍有終会編. 幕末以降帝国軍艦写真と史実. 海軍有終会. 1935年11月.
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- 海軍大臣官房. 海軍制度沿革. 巻11(1940年印刷). 海軍大臣官房. 1940 [2017-05-15]. (原始内容存档于2021-09-05).
- 菊池寛. 明治文明綺談. 六興商会出版部. 1943年9月 [2022-11-28]. (原始内容存档于2020-02-20).
- 中島武. 明治の海軍物語. 三友社. 1938年11月 [2017-05-15]. (原始内容存档于2020-11-18).
- 明治天皇御写真帖刊行会 (编). 大日本海軍写真帖. 明治天皇御写真帖刊行会. 1930年5月 [2022-11-28]. (原始内容存档于2020-02-02).
- アジア歴史資料センター(公式) (页面存档备份,存于互联网档案馆)(防衛省防衛研究所)
- 海軍省仏国ニ於テ新造ノ巡洋艦ニ名ヲ命ス. Ref.A15110818400.
- 仏国へ注文の巡洋艦へ名号被附度件. Ref.C11019076200.
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