用户:Sinsyuan/综合条目翻译工作室/中山隧道 (上越新干线)

内容来源:日语维基百科典范条目W:ja:中山トンネル (上越新干线)

中山隧道
中山トンネル
中山隧道北口
概览
地点
坐标
状况使用中
铁路线上越新干线
起点群马県涩川市小野子
终点群马県利根郡水上町上津
运营数据
动工于1972年(昭和47年)2月8日
建设周期1982年(昭和57年)3月17日[1]
启用于1982年(昭和57年)11月15日
业主东日本旅客铁道
运营单位东日本旅客铁道
技术数据
长度14.857千米(9.232英里)[2]
轨道数目2(复线
轨距1,435毫米(4英尺8+12英寸)
电气化方式25 kV AC, 50 Hz[3]
运营速度260千米每小时(160英里每小时)[4]
最高海拔437.6米(1,436英尺)[5]
最低海拔260.0米(853.0英尺)[5]
坡度12[2]
群马县内上越新干线的路线及中山隧道的位置

中山隧道(日语:中山トンネルなかやまトンネル Nakayama Tonneru */?)是上越新干线高崎站上毛高原站间,总长14.857千米(9.232英里)的复线铁路隧道,这也是日本首座引进新奥工法(NATM)的隧道。

这是从高崎方向的榛名隧道日语榛名トンネル数来第2座隧道,在施工期间发生了两次严重涌水事故,而造成施工难度极大。由于路线改变,在这座隧道内出现了半径1,500米(4,900英尺)的弯道,因此原本240千米每小时(150英里每小时)的新干线在通过隧道的弯曲部分时不得不减速至160千米每小时(100英里每小时)。

由于施工难度大大超出最初预期而导致工期延误,中山隧道的建设对整个上越新干线的开通影响很大,因此在后续的隧道建设开始前学到要事先进行地质调查等教训。

兴建背景

编辑

东海道新干线开通和正在建设中的山阳新干线之后,为了实现“国家的均衡发展”,在1970年(昭和45年)颁布了全国新干线铁道整备法[6]。根据该法案,决定修建上越新干线作为连接东京新潟的高速铁路,并于1971年1月完成基本计划[7]。经过仅约10个月的准备期,该项目于同年10月开工,但这个准备期可能过于短暂[8]。此外,在准备阶段的同时,也聚焦在与历经艰难工程的在来线上越线清水隧道新清水隧道平行的上越新干线最长隧道--大清水隧道之规划,因此中山隧道并没有得到充分的准备[9]

路线选择

编辑
 
中山隧道与周边河川和道路的位置关系

在群马县内,上越新干线的路线选择以隧道方式穿过月夜野日语月夜野町的高原地带下方,而不是像上越线那样沿利根川走。有主张认为这是由于与上毛高原站周边的土地开发利益有关的决定[10]。另一方面,也有人提出与当时计划的沼田水库日语沼田ダム計画有关的观点。新潟大学名誉教授大熊孝日语大熊孝表示:“据我了解,选择关越自动车道和新干线的路线是为了避开群马县沼田水库计划中的蓄水区域。”[11]

实际建设的中山隧道选择了穿过小野子山日语小野子山子持山日语子持山之间的火山活动形成的高原地带下方的路线。关于这一点,曾考虑过沿子持山东侧沿利根川修建隧道的方案[12]。然而,实际采用的路线是在平顺的高原地带下方进行建设,因此在建设隧道位置的通道上,由于必须建造斜坑,会变得非常长。考虑到铁路隧道很少有这样的先例,因此必须挖掘一个少见的立坑[9]。而在子持山东麓路线中,利根川沿线可以设置通往隧道的通道路线,施工条件较好[12]。根据证言,即使在事前的考虑中,子持山东麓路线也是首选直行线路的备选方案[13]。然而,子持山东麓路线在那之前需要穿越涩川市区,不仅会面临土地取得困难,还存在与前后站点位置的关系等问题[12]。此外,当时在东北新干线上,存在设置水泽和花巻等中间站的强烈要求,但日本国铁对增设中间站会影响新干线的高速性持否定态度。如果选择沿利根川北上的路线,会考虑在涩川和水上设置车站,但日本国铁高层担心这种站间距离较短的设置方式会对上越新干线产生影响,而最终选择了现行路线[13]

建设计划

编辑

建设担当

编辑

与以往不同的是,上越新干线是首次由日本铁道建设公团日语日本鉄道建設公団(以下简称公团)担任监造单位[14]。因此,中山隧道也是由公团负责监造。为了承担上越新干线工程,公团在起点位于大宫的126.330千米(78.498英里)(靠近在来线水上站附近)南侧设立了东京新干线建设局[15]。在该局的领导下,实际负责中山隧道建设的是高山铁道建设所[16]

建设基准

编辑
 
上越新干线标准隧道断面图

在建设上越新干线时,考虑到乘坐舒适度、蛇行振荡日语蛇行動粘着力日语粘着式鉄道等各种限制条件,并同时考虑到未来可能的改进空间,将计划最高速度设定为250千米每小时(160英里每小时)。然而,列车自动控制系统(ATC)的制动速度(允许最高速度)为260千米每小时(160英里每小时)[4][17]。实际上,在开业初期,列车最高速度为210千米每小时(130英里每小时),之后提速至240千米每小时(150英里每小时),从1990年(平成2年)3月10日的时刻表改正开始,仅下行2班列车通过大清水隧道的下坡段实现了275千米每小时(171英里每小时)的运行速度。然而,从1999年(平成11年)12月的时刻表改正开始,275千米每小时(171英里每小时)的运行速度被取消,改为240千米每小时(150英里每小时)[17][18]

关于车辆限界日语車両限界建筑限界日语建築限界,考虑到未来的直通运营和提升服务的弹性,以及节约建设成本效果较小的因素,采用了与东海道新干线和山阳新干线相同的隧道断面[19]。轴重方面,东海道新干线和山阳新干线的轴重为16吨,而上越新干线经过雪害防护措施后增加了1吨,达到17吨[20][21]。相应地,活荷载采用了新P-17标准活荷载和N-16标准活荷载[22]

关于最小转弯半径,遵循山阳新干线的标准,在车站外设定转弯半径为4,000米(13,000英尺)(必要时为3,500米(11,500英尺))[23],但事实上未能达到此标准,而在该隧道内部设定了转弯半径1,500米(4,900英尺)[24]。该隧道的纵向曲线半径大于15,000米(49,000英尺),最陡坡度小于15‰,平均坡度在长达10千米(6.2英里)的区间内不超过12‰。轨道中心距离为4.3米,轨道全面采用了无砟轨道[23]。隧道断面基本延续了山阳新干线的设计。基准宽度在轨面下0.4米(1.3英尺)的高度(基准面)处,直线区间为8.4米(28英尺),弹性线(连接隧道侧壁到上部圆形部分的连接点)的高度为从轨面到2.6米(8.5英尺),拱顶(隧道上部的圆形部分)的半径为4.8米(16英尺)[25]

线形

编辑

中山隧道位于从大宫起点的101.710千米(63.200英里)处到116.540千米(72.415英里)处的区间[26]。根据计划,隧道的长度应该是14,830米(48,650英尺),但实际上隧道内有两个重复的里程标(详细在后面提及),增加了27米(89英尺),总长度为14,857米(48,743英尺)[2]。隧道内的坡度计划为从大宫方向到新潟方向的上坡坡度为12‰[5],但实际完成的隧道中部存在一段坡度11.9‰的区间[2]。平面线形计划中,在隧道中间附近有一个半径为6,000米(20,000英尺)的曲线,用于下行列车向右偏转,而在隧道出口附近有一个半径为4,000米(13,000英尺)的曲线,用于下行列车向左偏转[5][2]。在建设过程的两次路线变更当中插入了半径1,500米(4,900英尺)的曲线[27][2]。隧道所通过的地区位于子持山和小野子山之间的鞍部,是一个海拔约400—650米(1,310—2,130英尺)的高原地带,土壤厚度约为200—400米(660—1,310英尺)[26]

工区划分

编辑

为了避免仅从两侧坑口进行长隧道兴建工程所需耗费较长的时间,通常会在隧道中间进行斜坑或横坑的工程以利缩短工期。斜坑或横坑仅用于准备工作,将时间花在这些工程本身上并无意义,因此在选择隧道路线时通常考虑斜坑或横坑的建设便利性。然而,中山隧道建设在高原地形区域,并没有适合建设横坑或斜坑的山谷,因此必须兴建立坑。由于铁路隧道建设中很少需要开挖竖井,因此缺乏经验,工程人员被派往煤矿进行培训以应对这个问题。然而,煤矿的地质时代与中山隧道的新时代地层差异很大,煤矿竖井在开挖时往往缺乏地下水,这对中山隧道的工程造成了巨大的挑战[9]

中山隧道最初分为从起点侧开始的6个工区:小野上南、小野上北、四方木、高山、中山和名胡桃[28][29]。其中,除了从两个坑口开始的小野上南和名胡桃之外,中间的4个工区使用了3个竖井和1个斜坑。其中,竖井的高度达到了300米(980英尺)[30]

在小野上北工区,发生了一起大规模涌水事故,迫使改变斜坑的路线。然而,即使这样,挖掘工程仍然无法顺利进行,与此同时顺利进展的小野上南工区接近小野上北工区的施工范围,因此在中途解约并废除该工区[31][32]。结果,小野上北工区无法对隧道主坑的完工做出任何贡献,反而导致了隧道周围的缺水灾害等问题[33]。随后的建设改为从三个竖井和两个坑口进行,而小野上南工区和中山工区成为援救无法顺利进展的其他工区的重任,因此两个工区的总长度接近5公里[29][34]

中山隧道工区划分
工区名称 小野上南 小野上北 四方木 高山 中山 名胡桃
动工日期 1972年9月1日[35] 1973年3月1日[36] 1972年2月8日[35] 1972年6月1日[35] 1972年6月1日[35] 1973年1月10日[35]
竣工日期 1982年2月1日[35] 1976年11月18日
(解约)[37]
1982年3月31日[35] 1982年3月31日[35] 1982年3月12日[35] 1976年7月31日[35]
计画 里程 101.710—104.610千米(63.200—65.002英里)[38] 104.610—106.300千米(65.002—66.052英里)[38] 106.300—109.200千米(66.052—67.854英里)[38] 109.200—112.100千米(67.854—69.656英里)[38] 112.100—114.900千米(69.656—71.396英里)[38] 114.900—116.540千米(71.396—72.415英里)[38]
长度 2,900米(9,500英尺)[38] 1,690米(5,540英尺)[38] 2,900米(9,500英尺)[38] 2,900米(9,500英尺)[38] 2,800米(9,200英尺)[38] 1,640米(5,380英尺)[38]
实际 里程 101.710—106.430千米(63.200—66.133英里)[35] (工区废除) 106.430—107.500千米(66.133—66.797英里)[35] 107.500—110.300千米(66.797—68.537英里)[35] 110.300—114.900千米(68.537—71.396英里)[35] 114.900—116.540千米(71.396—72.415英里)[35]
长度 4,720米(15,490英尺)[35] (工区废除) 1,070米(3,510英尺)[35] 2,827米(9,275英尺)[35] 4,600米(15,100英尺)[35] 1,640米(5,380英尺)[35]
作业坑 横坑188米(617英尺)[35]
位于101.860千米(63.293英里)处[36]
斜坑(当初)810米(2,660英尺)
位于104.900千米(65.182英里)处
斜坑(变更)626.6米(2,056英尺)
位于104.660千米(65.033英里)处[39]
竖井372米(1,220英尺)
位于107.734千米(66.943英里),主隧道左侧20米(66英尺)处[40]
竖井295米(968英尺)
位于109.460千米(68.015英里),主隧道右侧20米(66英尺)处[41][42]
竖井313米(1,027英尺)
位于112.640千米(69.991英里),主隧道右侧20米(66英尺)处[43]
无设置[35]
涌水量 40吨/分(最大95吨/分)[35] 8吨/分(异常出水时340吨/分)[44] 7吨/分(异常出水时80吨/分)[35] 15吨/分(异常出水时110吨/分)[35] 0.5吨/分[35] 0.3吨/分[35]
作业轨道轨距 912毫米(2英尺11.91英寸)[35] - 762毫米(2英尺6英寸[35] 912毫米(2英尺11.91英寸)[35] 912毫米(2英尺11.91英寸)[35] 912毫米(2英尺11.91英寸)[35]
施工厂商 铁建建设日语鉄建建設[35] 三井建设日语三井建設[38] 佐藤工业日语佐藤工業[35] 大林组[35] 熊谷组[35] 清水建设[35]
平均月进 40米(130英尺)[45] - 9米(30英尺)[45] 24米(79英尺)[45] 37米(121英尺)[45] 38米(125英尺)[45]
兴建经费
(日圆,每米)
576万[45] - 3467万[45] 1284万[45] 470万[45] 153万[45]

地质

编辑
 
1973年8月时点での中山トンネル付近地质縦断面図
 
1976年2月时点での中山トンネル付近地质縦断面図

中山トンネル付近では地表付近を火山泥流堆积物が厚く覆っており、また土被りが300 - 400 mにも达することから、地表面からの踏查で地质を调查することは难しかった[46]。そこでボーリング弾性波探查(人工地震波による调查)による地质调查が実施された。立坑に着手した1971年度(昭和46年度)の时点では12本のボーリングが実施されたが、コアの采取率が悪く详细な地质は不明のままであった[47]。その后、1972年度(昭和47年度)に追加のボーリング15本と弾性波调查が実施され、1973年度(昭和48年度)に総合解析としてトンネル全区间の地质縦断面図が作成された[47]

この当初作成された地质縦断面図では、トンネル本坑周辺のかなり広い范囲で猿ヶ京层群 (Gf) という堆积岩が分布していることになっていた。この堆积岩は约3000万年前に堆积して、长い年月の间に岩石化が进行し、涌水のほとんどないよく固结した良好な岩盘であるとされた。実际に中山立坑では工事中の涌水が少なかったこともあり、当初工事が难航していた四方木立坑や小野上北斜坑も、もう少し深く掘り下げれば堆积岩层に入って好転するものと期待されていた。しかし実际にはいつまでたっても良好な岩盘が现れることはなかった[48]

1974年(昭和49年)9月に小野上北斜坑において大出水事故が発生し、これを受けて70本以上のボーリング调查が追加実施されて、1976年(昭和51年)に再度地质縦断面図が作成された[49]。これによれば、当初四方木立坑や小野上北斜坑の下部にあるとされていた绿色凝灰岩を中心とした固结した堆积岩は、実际には未固结凝灰角砾岩(八木沢层、Yg)であることが判明した[50]。八木沢层は古く见积もっても数百万年前程度に堆积したもので、ほとんど未固结であり、中山トンネルの工事を难航させた最大の原因となった[51]

また、四方木立坑から高山立坑にかけての本坑付近に闪绿岩类 (Dp) の存在が确认された[52]。この闪绿岩は固くてトンネルを建设するのに适した地层であるが、中山トンネルにおいてはその上部が不整合面を形成していた。不整合面はかつての地表面で、その上に新たに堆积物が积み重なって地层の境界となっている。このためかつての地表面そのままに境界面に山や谷が形成されていて复雑な起伏があり[53]、地表からのボーリング调查によって构造を正确に把握するのは困难であった[52]。そして、トンネル施工基面がこの不整合面にほぼ一致していたため、本坑付近の地质分布が大変复雑なものとなってしまった。特に问题があったのは、本坑は不整合面の下部の闪绿岩层にあるが、不整合面までの高さが薄くなっている部分で、不整合面の上は20気圧近い水圧のかかった地下水を含む八木沢层であるため、本坑へ水が浸透してくることが问题となった。このため薬液注入を実施して対策を施したが、それでもそうした场所での大出水事故を招くことになった[54]。一方でそうした起伏に富んだ不整合面を把握することで、帯水层までの十分な离隔を置いた位置へのルート変更を行うことが可能となった[55]

工期

编辑

1971年(昭和46年)に当初の工事実施计画が认可された时点では、上越新干线の完成は1976年度(昭和51年度)と设定されていた[56]。约5年の工期は、东海道新干线や山阳新干线の実绩を考えれば、それほど无谋な设定ではなかった[57]。しかし建设中の1973年(昭和48年)には第一次オイルショックに见舞われ、建设予算の削减や新规発注の冻结が行われ、工事の遅れに直结した[58]。中山トンネルでは、当初完成予定のはずの1976年度の时点で四方木や高山の立坑がようやく完成して本坑の工事に入る段阶で、工事が大幅に遅れていることは明らかであった[57]

こうしたことから、1977年(昭和52年)3月24日の工事実施计画変更申请、同3月30日认可により、完成予定は1980年度(昭和55年度)へと延期となった[59]。しかし出水事故などに见舞われて工期はさらに遅延することになり、1980年(昭和55年)12月24日には1982年(昭和57年)春に东北・上越新干线を同时开业させる方针が発表された。ところが中山トンネルで2回目の出水事故が発生して、最终的に东北新干线との同时开业の断念に追い込まれた。结局上越新干线は1982年(昭和57年)11月15日の开业と决定し、これに间に合わせるべく突贯工事を続け、中山トンネルを同年3月に完成させた[60]

建设

编辑

建设工事は6つの工区それぞれにおいて行われた。以下工区别に、本坑への取り付きのための立坑や斜坑の工事を四方木高山中山小野上工区の顺にまず说明する。続いて本坑の工事を両端から工事した名胡桃工区小野上南工区を先に说明し、また立坑を用いた工区の本坑工事については、大きな问题のなかった中山工区を最初に、四方木工区における本坑工事と1回目の出水事故とその复旧工事および1回目のルート変更、高山工区における本坑工事と2回目の出水事故とその复旧工事と2回目のルート変更、そしてトンネルの完成の顺番で说明する。最后にトンネル工事に伴う渇水対策を说明する。

本坑への取り付き工事

编辑

四方木立坑

编辑
 
四方木立坑迹地。立坑は扬水施设として再利用されている。铁骨ケージの中にワイヤーで吊るされたエレベーターが确认できる。

1972年(昭和47年)2月8日、东京新干线建设局管内で最初の工事として、四方木工区の工事が佐藤工业に対して発注され[35][40]、同年4月に着工した[61]。四方木工区は当初计画では大宫起点106 km300 m地点から109 km200 m地点までの2,900 mを担当することになっており[38]、107 km734 m地点の下り列车に対して本线左侧20 mの离れの地点に立坑を建设して取りついた[40]。立坑の地表面から施工基面までの深さは336.6 m、施工基面より下にさらに35.0 m掘り、総深度は371.6 mである[62]。立坑の内径は6.0 mである[62]

立坑を掘るには、20 - 40 m程度掘削してから覆工(コンクリートで巻き立てを行う)するロングステップ工法と、1.5 - 3.0 m程度掘削してすぐに覆工するショートステップ工法があるが、涌水が多く地质の悪い中山トンネルでは地山(トンネル周辺の地盘)の缓みの少ないショートステップ工法が采用され、1回の覆工长を2.4 mに设定した[63][40]。ただし深度173 m以深は1.5 mピッチとなっている[64]。掘削作业では、穴をあけてダイナマイトを装填して発破を行い、エキスカベータを底に降ろしてずり(残土)を集めてキブル(立坑において资材运搬に使用する大きなバケット)を使って搬出し、その后に壁面のコンクリート打设を行うという手顺を缲り返して掘り下げていった[65]。掘削中に発生する涌水対策として、扬程40 m、扬水量500リットル/分のタービンポンプを2系统、30 m间隔で设置して地上へ扬水するようにしたが[62]、涌水量の増加に扬水が追い付かなくなり、3回にわたる扬水计画変更により1,500リットル/分のポンプを6系统备えたものに増强され、これ以外に予备1,500リットル/分、また清水用深井戸ポンプ扬程160 m、3,000リットル/分も备えた当初の12倍の扬水能力へ向上が実施された[66][67]

4月の着工后、19.2 m地点まで掘り下げを行うともに[68]立坑掘削の设备の准备を进めて、掘削设备の完成した10月からは本格的に掘削が开始された[61]。掘削が86 mまで进んで地下水位に到达した时点から涌水が始まり、次第に水量が増加していった。深度100.8 mに达した1972年(昭和47年)12月29日より第1回の坑底注入が実施された[69]。坑底注入は、立坑の底から下へ向けて多数のボーリングを実施して、セメントミルクや水ガラスを注入して坑底から约30 mの范囲で地质改良を行って、涌水を止める作业である。坑底注入作业中は坑底がそのための机械に占拠されてしまうため、その期间中掘削は止まってしまうことになった[70]。1973年(昭和48年)1月27日から掘削を再开したが、すぐに涌水が増加してしまい、第2回坑底注入を迫られることになった。こうして工事は掘削と坑底注入の缲り返しで进められることになった[69]。第3回坑底注入では、坑底にカバーコンクリートを打设してからボーリングを実施しようとしたが、厚さ2.4 mのカバーコンクリートが水圧で持ち上がってしまい、7.2 mまで厚さを増加させなければならなかった[69]。深さを増すにつれて水圧はさらに増大して施工条件は悪化していき、当初见込んでいた月间50 mの掘削など到底望めない状态となった[71]。结局、第1回100.8 m、第2回112.8 m、第3回139.2 m、第4回152.3 m、第5回162.9 m、第6回175.6 m、第7回204.7 m、第8回318.0 mと、都合8回の坑底注入を缲り返すことになった[72]

深さ158 m付近で坚固な安山岩の层に入ったが、10 mほど下で再び未固结な火山喷出物层に入ることは予测されていたため、この安山岩层を利用して深さ162.9 m地点で立坑周辺に钵巻状にトンネルを掘って注入基地を设けることになった。これは坑底で注入を行うとその期间掘削が中断してしまうため、立坑の周辺に设けた注入基地からボーリングして立坑周辺へ注入を行うことで、注入と掘削を同时并行して进めるものであった。しかし多少の效果はあったものの、注入基地からの注入距离が长くなるにつれて效果が薄れ、期待通りの成果とはならなかった[73][72]

こうした悪戦苦闘の末、1976年(昭和51年)8月12日についに371.6 mの立坑の掘削工事を完了した[67]。立坑を建设した后、本坑施工の准备のために立坑设备の工事(バントン工事)を行った。これは立坑にエレベーター、ずりだしスキップ、扬水管、风管、コンクリート管、高圧ケーブルなどを设置するもので、1977年(昭和52年)4月27日に着手し11月30日に完了した[74]

四方木立坑の工事に际して発生した他の问题としては、排水処理の问题がある。四方木立坑の涌水は、吾妻川の支流である関口沢川に放流されていた[75]。この川はイワナヤマメの渔场であり、また中流部にわさび田、养鳟场があって、下流では田んぼにも水が使用されているため、排水中の无机物を除去する対策を必要とすることになった。このため毎分10トンの処理能力を持つシックナー(排水処理设备)を设置し、凝集剤としてポリ塩化アルミニウム (PAC) を使用して无机物除去を行った[76]。さらにコンクリート打设に伴って排水のpHが上升したため、硫酸を投入して中和を行った[77]。ところが立坑内の涌水増大に対応するために注入薬剤を效果の高い有机性薬剤に変更したところ、シックナーの処理效率が低下し放流水の生物化学的酸素要求量 (BOD) が上升し、川に水わた(铁バクテリアの一种)が発生して污染されることになった[76]。これに対して接触酸化装置の导入や改良の対策が実施された。さらに涌水量の増大に対応してシックナーの増设や、中和に伴う硫酸イオン増加の悪影响に対処するために炭酸ガスによる中和设备を导入するなど、改良を行ってきた[78]。また排水処理施设の负荷軽减を図るため、注入基地より上部からの绮丽な涌水を别途専用のポンプで扬水して、処理设备を通さずに直接放流するようにしていた[79]。同様の排水対策は、他の工区でも実施されている。

高山立坑

编辑
 
高山立坑迹地。正面は小野子山。

高山工区は大林组に対して発注され、1972年(昭和47年)8月に着工した[80][81]。高山工区は当初计画では大宫起点109 km200 m地点から112 km100 m地点までの2,900 mを担当することになっており[38]、109 km460 m地点の下り列车に対して本线右侧20 mの离れの地点に立坑を建设して取りついた[80]。立坑の地表面から施工基面までの深さは260.0 m、施工基面より下にさらに35.0 m掘り、総深度は295.0 mである[62]。立坑の内径は6.0 mである[62]

高山立坑では、四方木立坑に比べても浅い位置に地下水位があることが分かっていたため、掘削开始前に地上から注入作业を行った。35 mずつ8ステップに分けて、掘削予定の深さのほぼ全体にわたって薬液の注入を行って、涌水の防止を试みた。しかし、坑底での注入では地下水位の下で作业を行うため、注入用のボーリング穴を开けたときに地下水が喷出してこなくなれば十分薬液が注入されて止水されたと判断できるが、地下水位の上で作业を行う地上からの注入ではボーリングをしてももともと地下水の喷出が无く、薬液の注入效果を确认できないという问题があった[82]

1973年(昭和48年)1月になりようやく立坑の掘削工事を开始した[83]。四方木立坑と同様の手顺でショートステップ工法により掘削を推进したが、51.8 m地点で约1.5トン/分の涌水に见舞われて掘削不可能となった。そこで高山立坑でも坑底注入を実施することになり、カバーロックコンクリートを施工してボーリングを行い、薬液注入を行ってから掘削し、再びボーリングと注入を行うという段阶的な注入方式を実施した。しかし59.8 m地点で再度约0.8トン/分の涌水に见舞われ、経済的にも工期的にも问题のあった段阶的な注入方式の见直しが行われた[84]

続いて采られた対策はディープウェル(深井戸)の掘削である。立坑の周囲に30 cm径の穴を8本、深さ200 mまで掘削し、ポンプでこの穴から水をくみ上げてしまうことで、地下水位そのものを下げようという対策であった。ディープウェル1本あたり3トン/分のポンプを设置し、8本合计で24トン/分の排水を続けたが、水位は100 m程度までしか下がらなかった。さらに低温の排水が周辺の水田に低温障害を引き起こしていたこともあり、これ以上のポンプ増设は困难であった[85][86][87]。ともかく、ディープウェルによる汲み上げと坑底注入の并用で、深さ119 mまで掘削を行った[88]

その后、深さ200 m付近にあることがわかっている安山岩层まで、残り80 mほどの掘削にあたって、フランスで开発された注入工法であるソレタンシュ式注入工法(ソレタンシュ地盘改良工法)を采用することになった。この工法ではより精密に所定量の薬剤を必要な场所に注入することができるという特徴がある。3回に分けての注入が実施され、1975年(昭和50年)9月に深さ195 m付近で安山岩层に到达し、その后は顺调に工事が进められた[89][90]。1976年(昭和51年)6月4日に坑底に到达した[80]。その后10月15日からバントン工事が行われ、1977年(昭和52年)5月15日に完了した[91]

中山立坑

编辑
 
中山立坑迹地。

中山工区は熊谷组に対して発注され、1972年(昭和47年)7月20日に着工した[80][92]。中山工区は当初计画では大宫起点112 km100 m地点から114 km900 m地点までの2,800 mを担当することになっており[38]、112 km640 m地点の下り列车に対して本线右侧20 mの离れの地点に立坑を建设して取りついた[43]。立坑の地表面から施工基面までの深さは277.9 m、施工基面より下にさらに35.0 m掘り、総深度は312.9 mである[62]。立坑の内径は6.0 mである[62]

中山立坑の地点では、基盘となる绿色凝灰岩层が隆起しており、立坑の313 mの深さのうち250 mほどが基盘の中に入っていた。このため四方木・高山の両立坑と异なり、工事中に涌水に悩まされることはほとんどなく顺调に工事が进められた[43]。他の立坑が难航を続ける中、中山立坑は1973年(昭和48年)10月12日には深さ313 mまでの掘削を完了した[92]。その后バントン工事を1974年(昭和49年)1月31日から5月3日までかけて施工した[93]

なおこの中山立坑は、本坑の工事完成后は保线作业や渇水対策事业などで使用する见込みがなかったため、埋戻しが行われている。下部にはコンクリートを流し込み、その上は土砂を上部から投入して、コンクリートで盖をして埋められている[94]

小野上北斜坑

编辑
 
小野上北斜坑迹地。正面の杉木立の下部に设けられていた。

小野上北工区は三井建设に対して発注され[38]、1973年(昭和48年)3月1日に着工した[36]。小野上北工区は当初计画では大宫起点104 km610 m地点から106 km300 m地点までの1,690 mを担当することになっており[36]、大宫起点104 km900 m地点に取り付く全长810 mの斜坑を建设することになった[39]。中山トンネルで唯一の斜坑であり、その倾斜は14.5度である[95]

斜坑掘削开始当初から涌水が多く、深くなるにつれてさらに増大していった。457.8 mまで掘削した1974年(昭和49年)9月27日に切羽(トンネル工事の先端部)が崩壊し大出水事故を起こした。出水量は340 t/分にも达し、约10分间にわたって坑口から水が喷き出した[96]。この水量は、100万人规模の都市の水道水を供给できる量である。出水事故当时先端にいた作业员は水に追われて斜坑を走って脱出することになった。また流出した水が斜坑付近にあった民家の床下浸水をもたらしている[32]

出水后、复旧工事を进めるとともにボーリング调查により地质を调查したところ、出水地点付近に20万立方メートルに及ぶ大滞水块が存在することが判明した[96]。ほとんど地中湖同然の水块であり[32]、その水圧が地山强度を超えたことが出水事故の原因であった[96]

现行ルートでの斜坑掘削継続は不可能とされたが、しかし邻接する小野上南工区も难航していたことから、双方の进捗状况を検讨した上で、小野上北斜坑のルート変更を行って建设を継続する方针となった。斜坑口から188 mの位置で大宫方へ20度で分岐し、勾配18度で本坑へ到达する、分岐后の延长447 mの新斜坑の计画が决定され、1975年(昭和50年)11月に着手した。ところが新斜坑を掘るにつれて、旧斜坑の涌水量が减少してその分が新斜坑に出てくるような状态となり、再び难航するようになった[96]。1976年(昭和51年)7月5日、新斜坑の掘削を中止し、再度検讨を行った。その结果新斜坑であっても、旧斜坑の中止原因となった滞水块の影响を受ける范囲を外れておらず危険であることがわかり、掘削を継続するためには注入作业を并用しなければならないことが判明した。一方でこの间に小野上南工区は顺调に进行するようになっており、7月10日时点では工区境まで510 mのところまで来ていた。双方の进捗を考虑すると、小野上北斜坑が本坑位置に到达して本坑の掘削を开始できるよりも先に、小野上南工区からの掘削が到达すると考えられたことから、小野上北斜坑の工事継続を断念することになり、1976年(昭和51年)11月18日に契约解除となった[97]。小野上北工区が担当するはずだった本坑の区间は、结果的に小野上南工区により建设されている[38][35]

本坑工事

编辑

名胡桃工区

编辑
 
名胡桃工区の开削工法工事迹。トンネル北口付近から南方向を望む。

名胡桃工区は清水建设に対して発注され、1973年(昭和48年)1月10日に着工した。大宫起点114 km900 m地点から116 km540 m地点までの1,640 mを担当する工区で、新潟方の坑口からの工事となった[35]。坑口侧340 mを开削工法で施工した他は、底设导坑先进工法による机械掘削で顺调に工事が进められた。下り勾配区间であったが、涌水の量は少なく问题とならなかった[98]。1976年(昭和51年)7月31日に竣工した[35]。结局、ほぼ予定通りに完成したのは名胡桃工区だけであった[32]

小野上南工区

编辑
 
小野上南横坑。

小野上南工区は铁建建设に対して発注され、1972年(昭和47年)9月1日に着工した[35]。小野上南工区は当初の计画では大宫起点101 km710 m地点から104 km610 m地点までの2,900 mを担当することになっていた[38]。大宫方の坑口を担当する工区であるが、坑口のすぐ前を国道353号(着工当时は主要地方道渋川中之条线)が通っており设备を设置できなかったため、下り列车に対して本线左侧の丘陵から188 mの横坑を掘って本线の101 km860 m地点に取り付いて掘削工事を行った[36]。この横坑は、后にトンネル巡回车両の基地として再利用された[99]

本坑は上り12パーミルの片勾配での掘削を进め、当初は底设导坑先进工法を使用した。土被りが厚くなり八木沢层に入るにつれて涌水量が増大したため、103 km760 m付近からサイロット工法(侧壁导坑先进工法)に切り替え、水抜坑を掘りながら掘削を続けた[100][101]。この际掘られた水抜坑は、高山工区本坑の同様の水抜坑とともに、トンネル微気圧波対策のために存置されている[102]。小野上南工区が立坑による工区と异なるのは、上り勾配であるため涌水をポンプによらず自然排水できて、水没することがないということである[103]

こうして平均60 m/月で进行してきたが、105 km600 m付近で四方木累层泥岩部に遭遇し、安山岩部からの高圧涌水により掘进が困难となった[101][34]。水抜き坑や止水注入を行い、吹付コンクリートによる支保を采用するなどして约6か月かけて突破した[34]。その先では绫戸安山岩层に入り、柱状节理が発达していたため周辺からの涌水が多く、约4か月にわたって水抜きを続けてようやく水が止まり、この层を突破した[104]。105 km950 m付近からは、水のほとんどない堆积岩层に入り顺调に工事が进められたが、约20 m上は水を大量に含んだ八木沢层であり、やはり境界が不整合面を形成していた[105]。このため慎重な掘削が行われ、一部で新オーストリアトンネル工法 (NATM) も采用された[104]。106 km410 m付近からは八木沢层に入ることから、约4か月かけて薬液注入を実施し、これを完成させた[104]

中山工区本坑

编辑

中山工区は1974年(昭和49年)7月から导坑掘削に着手した[106]。この工区は涌水はあまりなかったが、膨圧および高热に苦しめられることになった。地质は绿色凝灰岩であったが、强度が弱く土被りの大きさによる大きな圧力により掘削した区间の岩肌が次第に膨张してきて坑道が狭くなってきてしまうという问题が発生した[32][107]。こうした膨圧の强い区间の対応として、サイロット工法が选択された。サイロット工法は侧壁导坑先进工法とも呼ばれ、全断面のうち両侧の壁になる部分に先に导坑を掘って壁面の覆工を行い、それから天井部分を掘ってアーチを形成し、最后に中央を掘削する方法である。しかしその导坑も膨圧により缩小が発生し、支保工は折り曲げられトロッコを走らせる线路は持ち上がり、通行も困难な状态となってしまった。このため既に掘った区间の掘削作业をやり直す“缝い返し”が必要になり、作业は一进一退となった[108]。1975年(昭和50年)7月に113 km328 m地点までたどりついたが、その后约1年间前进することができなくなった[109]

また岩盘の膨张に伴い山からの発热があり、坑内の温度が上升したことも问题となった。コンクリートの硬化热もあるため、坑内の温度は摂氏40度を超え、しかも湿度も100パーセントという状况になった。坑内にエアコンを设置してみたが、切羽部分だけ冷却しても、エアコンの排热が他の部分を温めて灼热となるため失败した。また液体空気を散布する方法も试したが、局所的にしか役に立たず、雾が発生して作业に支障をきたして失败した。结局坑内に冰柱をおき、作业员は水を浴びながら作业を続けることになった。しかし特に冬期には、坑内と坑外の気温差で体调を崩す作业员が続出した[110]

侧壁导坑の膨圧対策として、1976年(昭和51年)5月からロックボルトと可缩支保工の试験施工を开始した[111]。ロックボルトは、トンネル周辺の岩に2 - 3 mのボルトを打ち込んで人工的に岩の强度を强化しようというものである[110]。一方可缩支保工は、周囲の岩盘を支えている柱(支保工)が圧力で座屈するのを避けるために、支保工の柱に可缩継手を入れて小さくできるようにしたものである[111]。これにより、掘削后膨张が止まるまで1年ほどかかっていたのが、80日程度に短缩され、またその膨张量も抑えられて效果を上げることができた[112]

この成果を基に、新オーストリアトンネル工法 (NATM) を导入することになった[113]。NATMでは、ロックボルトに加えて表面に吹付コンクリートを施工することで、さらにうまく膨圧に対処することができる。NATMは日本では中山トンネルにおいて初めて施工された[114]。サイロット工法における导坑においても吹付コンクリートを并用することが検讨されたが、温度が高いことや换気に问题があること、立坑の输送能力の制约などから见送られている[115]。すでに掘削を终えていた名胡桃工区侧から、1977年(昭和52年)3月に断面90平方メートルのショートベンチ工法(断面を2段または3段に分割して顺次掘削していく工法)でNATMの使用を开始した[100]。これは成果を上げ、平均月进65 mを达成して延长800 mを施工し、中山工区と名胡桃工区の间が1977年(昭和52年)10月に贯通した[116]。この日本初のNATM导入に対して、“强膨张性地山における吹付コンクリートとロックボルト并用を主体とするトンネル工法の设计・施工”という名目で、日本铁道建设公団东京新干线建设局および熊谷组に対して昭和53年度土木学会赏技术赏が与えられている[117]

一方中山立坑より大宫方では、四方木・高山の両工区の工事が难航していたこともあり、工区割の変更が行われて4回に渡る追加発注が行われ、当初の2,800 mの工区长に1,800 mが追加されて4,600 mとなった。1981年(昭和56年)12月に中山工区の工事が完成した[106]

四方木工区本坑工事と1回目の出水事故

编辑

四方木工区では立坑着工以来5年10か月を要して、1977年(昭和52年)12月にようやく本坑掘削工事に着手した[118]。四方木立坑の本坑基面高さ付近には八木沢层が存在して、その涌水が立坑の工事に大変な障害となったが、本坑周辺の地质は地上からのボーリング调查だけでは把握することが困难であった。そのため立坑坑底设备を准备している段阶から、周辺に対して水平ボーリングを実施して地质调查を行い、下り列车に対して本线右侧(东侧)に坚固な闪绿玢岩が存在することが判明した[119]。そこで工期を短缩するため、本坑东侧の坚固な岩盘に迂回坑を掘って八木沢层を迂回し、邻接工区と连络を図るとともに注入作业を行う基地を増やすことを狙った[118][120]。こうして本坑の掘削と并行する形で、1978年(昭和53年)4月に迂回坑に着手された[118][119]

 

迂回坑は大宫起点106 km759 m40の地点から分岐し、四方木立坑から东へ伸ばしてその先で曲がり、新潟方は100 m、大宫方は140 m本坑から下り列车に対して右侧に离れた位置を本坑に平行に伸ばして行った[121]。当初はこのまま伸ばして本坑へ戻るようにする计画であったが、前方をボーリングで探りながら掘削していき、八木沢层があることが判明すると迂回するように曲げたため复雑な経路となった。新潟方の迂回坑は1979年(昭和54年)2月23日、全长822.9 mで本坑大宫起点107 km394 m74の地点に到达して完成した。また迂回坑より本坑に近いところに、本坑に対する注入を行うための注入基地を建设する工事を行った[122]

こうして迂回坑と本坑を并行して作业を行っていた1979年(昭和54年)3月18日に出水事故が発生した[123]。この时点で新潟方は、迂回坑が本坑へ到达し、その先大宫起点107 km481 mの地点まで掘削が进んでいた。また立坑から直接新潟方への本坑は106 km804 m地点に到达していた。これに対して大宫方は、本坑が106 km661 m地点、迂回坑が410.4 m(本坑の位置にして106 km455 m地点)まで掘削が行われていた[124]

出水事故を起こしたのは、本坑掘削予定地点に対して侧面から薬液注入を実施するために、新潟方迂回坑から分岐して掘削した注入基地であった。1979年(昭和54年)2月21日までに107 km086 m地点まで掘削した时点で、やや风化した岩盘が现れてきたために掘削を中止し、その地点で注入基地を设置する准备を进めていた。この时点では涌水はほとんどなかった[125]。しかし3月16日になり100リットル/分ほどの涌水が発见されたため补强作业が开始された。17日には涌水が2トン/分に増加したこともあり、コンクリート覆工を行うことにし18日にその用意が整った。21时30分に确认した时点ではまだ涌水量は2トン/分程度であったが、22时に确认した时点では80トン/分にも及ぶ浊流が溢れだしていた[124][126]。ただちに作业员の非常呼集がかけられ、51名の作业员が现场に急行して出水の阻止作业をしようとした。しかし出水现场の注入基地にたどり着くのも困难な状况で、そのうちに照明が消えたことから现场へ行くのを断念し、ポンプ室と変电施设の死守に方针を切り替えた。それでもあまりに水量が多く、水が止水壁を越えてポンプ室に流れ込み始めたため、23时45分に退避指令が出された。ところが、ポンプ室への浸水により电気系统がショートしており、立坑のエレベーターは动かなくなっていた。さらに立坑内の扬水ポンプの机能が停止したため、中継ポンプ室から溢れた水が滝のようにエレベーターに降り注ぎ、エレベーター内は大混乱に陥った[127]

地上では非常用発电机が立ち上がったが、坑内で电気系统がショートしているためすぐに停止してしまい、电気系统の切り替えが必要とされた[128]。担当している电気主任は渋川市内の自宅におり、紧急连络を受けて现地へ自动车で駆け付けた。この际に、现场までの山道を全速で走ったためにパトカーの追迹を受け、それを振り切って现地へ駆けつけるほどであった[129]。电気主任の系统切り替え作业により3月19日0时25分にエレベーターが动き始め、かろうじて51名は无事救出された[128]。朝の8时35分の时点で、立坑の底から约250 mのところまで水位が来て安定していることがわかり、四方木工区は完全に水没してしまった[130][126]

出水事故の原因は、注入基地建设の际にボーリングで八木沢层までの间隔を确认して掘削を止める位置を决めた际、间隔を4 m程度确保したつもりであったが、ボーリングの间隙に被りが薄くなっている地点があり、そこが水圧に耐えられなくなって崩壊し水が喷出したものと推定された[126]

四方木工区复旧工事と1回目のルート変更

编辑

出水事故で水没した四方木工区を复旧するために、出水场所となった注入基地を闭塞する作业が行われた。これには、注入基地の360 m上部の地上からボーリングを行い、セメントミルクおよびモルタルを流し込むことで行われた。その上で、立坑に设置したポンプからの扬水量や、邻接する高山工区から行ったボーリングで排水された量と、立坑の水位の変化を比べることで、闭塞が确実に行われ水が止まったことが确认された[126]。そこでポンプを设置し排水作业を行い、1979年(昭和54年)9月17日、出水事故から6か月后に排水作业を完了することができた[131]

排水完了后、损伤していたエレベーター関系の回路复旧や高圧ケーブルの敷设しなおし、损伤ポンプの撤去や代替ポンプの新设などの作业を行い工区の复旧を进めた。坑内の点検と清扫も行ったが、地上から闭塞のために注入した注入剤が迂回坑に流れ込んで堆积しており、その撤去まで新潟方への掘削作业を再开することができなかった。このため邻接する高山工区から导坑を贯通させ、新潟方からも応援の掘削を行った[132]。最终的に四方木工区の复旧工事が完了したのは1980年(昭和55年)2月末のことであった[118]

なおこの四方木工区水没事故において水没した机材の费用は、工区を请け负っていた佐藤工业から公団に対して请求されたが、机材価格を伪るなどして総额6亿2814万4000円の请求额のうち约1亿5000万円が水増し请求であったことが会计検查院の调查で発覚し、1981年(昭和56年)11月26日の参议院大蔵委员会において追及を受けることになった[133]

中山トンネルのうち、四方木工区に属する大宫起点106 km400 mから107 km300 mほどの区间は、高圧の涌水を伴う过酷な地质条件にあることがこれまでに明らかになっていた。一方で迂回坑の掘削およびその际の地质调查により、本线より东侧(下り列车に対して右侧)には良好な地质の层が存在していることも明白になっていた。地质条件の悪い区间を直接掘削することも注入作业を行えば可能ではあったが、工期の短缩および工费の节约を図るためにはトンネルのルート変更を行って、地质の良い东侧に本坑を移すことが有效であると考えられるようになった。四方木工区の水没事故をきっかけにルート変更の方针となり、1979年(昭和54年)9月20日に公団総裁に上申され、9月27日に承认されてルート変更が决定した[134]

地质分布の分析から、106 km600 m地点において従来の本坑から75 m东に移す方针が决定された。この时点で、大宫方に邻接する小野上南工区は105 km600 m付近まで接近してきており、その工事のやり直しをできるだけ少なくするように新たなルートを设定する必要があった。一方で新潟方に邻接する高山工区でも、108 km130 m地点付近において半径6,000 mの曲线の设定があり、それに抵触しないように设定する必要もあった[135]。これに加えて、新干线铁道构造规则により最小曲线半径は4,000 mと规定されており、これを顺守する必要があった[23]

こうして、下り列车に対して半径6,000 mの曲线で右へ曲がり、半径4,000 mの曲线で左へ曲がり、再び半径6,000 mの曲线で右へ曲がって元の本坑ルートへ戻る経路が决定された[27]。従来の本坑より最大で85.81 m东にずれ[134]、従来は八木沢层通过区间が约780 mであったところを约280 mに短缩した[120]

 

高山工区本坑工事と2回目の出水事故

编辑

高山工区では、1977年(昭和52年)6月から本坑掘削に着手した[136]。高山立坑の底付近は坚固な安山岩や闪绿玢岩であったこともあり、本坑工事は顺调に进められた[137]

立坑より新潟方では、大宫起点109 km600 m付近から古子持火砕岩层に入った[138]。涌水は少なかったが水圧が高いままであり、水抜きが困难で、しばしば土砂流出を缲り返した。迂回坑を建设したが、これも行き诘った。结局注入によって突破することになった[139]。ソレタンシュ式注入工法を采用したが、工费が膨大であり月进6 - 10 m程度でしか前进できなかったため、异なる工法が検讨された。その结果、ボーリング穴に真空ポンプを接続する水平バキューム排水工法(真空水抜工法)を采用することで月进30 m程度を达成することができた[138]。1981年(昭和56年)10月に高山工区の新潟方が完成した[140]

一方高山工区の大宫方は良好な地质で顺调に掘削を进めることができた。底设导坑先进上半工法により掘削を进めてきたが、108 km000 mから300 m付近には八木沢层が分布していることがわかり、108 km380 m付近からサイロット工法に切り替えた[137]。ここでも迂回坑を掘ることが検讨された。下り列车に対して本线右侧(东侧)の方が不整合面の尾根になっていると考えられたことから、东侧に向かって迂回坑を掘ってみたが、ボーリングにより前方に八木沢层があることが确认され前进できなくなった。当初の见込みとは逆に、下り列车に対して本线左侧(西侧)に闪绿岩があることが判明し、こちら侧に迂回坑が建设された。最大で180 mほど本坑から离れた场所を迂回して、1979年(昭和54年)10月に107 km900 m付近に到达することに成功した。これにより八木沢层の背后に回ることができたため、八木沢层を両侧から攻略するとともに、この间に出水事故を起こして停滞していた四方木工区へ向けて掘削を进めることになった[141]

迂回坑により回り込んだ先で新潟方へ逆戻りするように本坑工事を进めて行ったが、108 km100 m付近で探りボーリングにより八木沢层が近づいていることが判明した。このため注入を実施して前进することになった。1980年(昭和55年)3月6日、108 km125 mまで导坑を前进させ、次のボーリングとコンクリート覆工を行う准备を进めていた。3月7日23时30分顷、108 km110 m付近で変状が见られ始め、补强作业を行ったものの8日9时30分顷40トン/分の大出水となった[142]。この当时、四方木工区と高山工区の间の坑道がつながったばかりであったため、この水は両方の工区に流れ込んでいった[143]。出水から1日半の间は両工区の扬水能力の范囲内であったため完全水没は免れていたが、3月9日17时30分に2次崩壊が発生し、110トン/分の大出水となって四方木工区と高山工区のすべてが水没した。四方木工区がようやく复旧したばかりの时期の出水事故であったため、関系者に大きな冲撃をあたえた[142]。前年12月24日に、1982年(昭和57年)春に东北新干线と上越新干线を同时开业させる方针が発表された直后であったが、この时期に再度の出水事故の打撃は大きく、ついに上越新干线は东北新干线との同时开业を断念することになった[60]

今回の出水事故は、闪绿岩が半岛状に伸びているところにトンネルの本坑を掘る形となったため、両侧面から水圧がかかって岩盘が劣化したことが原因と考えられた[144]

中山银座と2回目のルート変更

编辑

前年の四方木工区出水事故の复旧工事と同様に、トンネル上部の地上からボーリングを行って闭塞作业を行うことになった[145]。さらにこの作业期间を利用して、今后の本坑掘削工事に障害となる八木沢层の区间に対して地上から薬液注入作业を行っておくことになった[146]。この注入作业を行うに际しては、その范囲をできるだけ少なくすることが求められた。このため、2回目のルート変更が决断されることになった[27]。ルート変更は八木沢层を通过する区间をできるだけ少なくすることが目的であった。小野上南工区と四方木工区の境界付近にある100 mほどの八木沢层の区间はどうやっても避けることができないが、高山工区の八木沢层区间は回避して闪绿岩の层を通すことは可能であった。そのために80 km/h程度の速度制限を甘受して半径500 mの曲线を挿入することさえ议论された。残りの工程を详细に検讨した结果、高山工区の八木沢层は回避しなくても小野上南工区と四方木工区の境界付近の八木沢层よりは先に掘り抜ける见込みとなったことから、制限速度160 km/hで半径1,500 mの曲线を挿入することになった[147]。1981年(昭和56年)1月7日に公団総裁に上申され、1月30日に承认されている[27]

 

 
注入ボーリングが行われたノーザンカントリークラブ上毛のスタートティーグラウンド。ボーリングが行われた地点は2018年现在、IN、OUTスタートホールに挟まれたパット练习场(画像中央)になっている。

このルート変更により、下り列车に対して半径6,000 mの曲线で右に曲がり、さらに半径2,000 mの曲线で右に曲がって、半径1,500 mの曲线で左へ、続いて右へ曲がって元の半径6,000 mの右曲线につなぐ复雑な迂回経路が设定された。2回のルート変更の结果、2か所の重キロ程が発生した。108 km120 m60地点でキロ程が20 m60巻き戻されて108 km100 m00となり、また108 km476 m67地点でやはり6 m32巻き戻されて108 km470 m35となって、都合26 m92のキロ程が重复している[27]。この変更により、八木沢层を通过する区间は最终的に约140 mにまで短缩された[120]

こうして変更されたルート上の八木沢层区间に対して、地上からの注入作业が始められることになった。注入区间は106 km422 m - 106 km550 mの144 m、106 km638 m - 106 km692 mの54 m、108 km031 m - 108 km229 mの198 mの合计396 mとされた[146]。そのために注入个所の直上に敷地が必要とされた。前の2区间は直上が県道と国有林であったため、借地しあるいは道路を付け替えることで対処することができた。しかし最后の1区间は直上がゴルフ场(ノーザンカントリークラブ上毛ゴルフ场)であった。しかも直上にあたるのはスタートホールのティーグラウンドで、仮に営业休止となれば补偿额が大きくなることは免れなかった。しかしゴルフ场侧の理解を得て、ティーグラウンドを通常より前に出してボーリング作业を行うことができた[148][149]

外部图片链接
  中山银座の坑外注入作业(最下部)

こうして注入作业が开始された。日本全国からボーリングマシンが100台以上集められ、ボーリング技术者の90パーセント以上が中山に集结した[150]。作业は昼夜兼行で行われ、多数のやぐら群が煌々と照明で照らし出される幻想的な夜景は、谁からともなく“中山银座”と称されるようになった[151]。平均360 mの深さのボーリングを643本行い、16万立方メートルに及ぶ薬液を注入した[146]。このための费用は257亿円にも上ったとされる[149]。坑外からの注入は、长いボーリングが必要であることや效果を确认しづらいこと、薬液の注入の无駄があることなど、费用面では明らかに不経済な方法であったが、上越新干线全体の开业时期が中山トンネルの完成にかかっている以上やむを得ないものであった[152]。この时期新潟県内の平野部ではすでに线路が完成し、1980年(昭和55年)11月5日からは试运転が始まっていたのである[153]。注入作业は工区が复旧した后の1981年(昭和56年)6月まで継続された[154]

扬水量と水位の変化などから闭塞が完了したことが见込まれると、ポンプを増设して扬水量が増やされ、1980年(昭和55年)8月20日に高山工区、8月27日に四方木工区の排水がそれぞれ完了した[155]。11月上旬に両工区の复旧作业が完了した[146]

トンネルの完成

编辑
 
中山トンネル北口。

中山トンネルの完成に上越新干线全体の开通时期が依存していたこともあり、水没した工区の复旧后は工事が急ピッチで进められた。地质・残工事量・后続作业との兼ね合いなどを検讨の上で工区割が再编された。作业员约2,000名が投入され、迂回坑を利用して増やされた本坑掘削现场で24时间3交代制の猛スピードで工事が进められた。四方木工区では、立坑でズリを运ぶ装置の稼动率が93パーセントに达するという记录的な値となった[156][1]。1981年(昭和56年)8月、上越新干线の开业予定が翌1982年(昭和57年)の11月と発表された。これに间に合わせるためには、トンネルを3月までに完成させて后工程の轨道工事・电気工事に引き渡す必要があった[157]

1981年(昭和56年)10月から12月にかけて、中山工区と高山工区の本坑工事が顺次完了していき、残されたのは四方木工区と小野上南工区の境界付近となった[140][145][106]。この区间では1981年(昭和56年)7月27日に迂回坑が贯通した。これは、迂回坑ではあったが中山トンネルの全区间が贯通したことを意味し、また四方木・高山の両工区が下流の小野上南工区とつながったことで、水没の恐れがなくなったことも意味した[158][122]。小野上南工区の本坑工事は11月末まで続けられ、106 km430 m地点で完了した。これは当初设定の工区では小野上北工区を完全に含み、四方木工区の大宫方130 mまでをも含むもので、総延长は4,720 mとなった。そして四方木工区侧から残り40 mの工事が行われ、12月23日に贯通してようやく中山トンネル全区间の本坑が贯通した[159]

1982年(昭和57年)3月17日、群马県知事や近邻町村长、公団総裁や请负会社の社长らが临席して、中山トンネル完成式が行われた。代表者により最后の轨道用コンクリートの打设が行われた[160]。これによりトンネルは土木工事から轨道工事に引き渡された。

トンネルの建设がまだ行われている中でも、既に完成した区间では轨道の敷设が始められていた[161]。引き渡しを受けて最后の区间の工事が进められ、4月に轨道工事が、5月に电気工事が完了した[60]。7月23日に试运転が开始され、11月15日についに开通を迎えることができた[162]

14,857 mのトンネルに、约10年の歳月とのべ230万人の作业员が投入された[1]。中山トンネルのメートル当たりの建设费は约839万円に上り、上越新干线の全トンネルの平均约330万円を大きく上回った。わけても2回水没し、八木沢层に苦しめられた四方木工区の建设费はメートル当たり3467万円という多额に上った[163]。トンネルの长さ14,857 mをかけると、総额は1246亿5023万円となる。この他に、渇水対策费として约119亿円を费やしている[164]。これだけの难工事であった中山トンネルであるが、上越新干线全体で72名の殉职者を出しているのに対して、2名(资料によっては4名)の犠牲に留まっている[165][1]。2回の水没事故も犠牲者を出すことがなかった[165]。このトンネルを、新干线は约4分で走り抜ける[1]

渇水対策

编辑
 
八木沢扬水立坑。八木沢谷底かつトンネルの真上に立地する。

トンネル工事に伴い、地表では渇水の被害が広がった。特に小野上南工区では、坑口からの自然排水によりどんどん水を抜いていたので、その上部にあたる小野上村子持村において深刻な被害が発生した。沢が1本干上がり、その他の沢も水量が减少し、水道用の扬水井戸では水位が下がってポンプによる汲み出しができなくなった。こうした问题の対処のために给水车が随时出动した。代掻きをする时期には农业用水の不足が问题となり、トンネル涌水や近くの川の水をポンプアップして対応したが、水量の不足に対処するために各农家での代掻きの时期の调整が必要となった。小野上南工区が柱状节理にぶつかって大量の涌水が発生した际には、小野上村の基干水源地の水源が枯渇し、トンネル涌水を水源地に送る全长约5 kmの配管を村道に沿って急遽建设して断水を防いだ[166]

中山トンネル工事に伴う渇水で、高山村・小野上村・子持村の3村で合计约6,300人に何らかの饮料水被害が生じた。また农业用水被害を受けた面积は83ヘクタールに上る。期间中のべ4,600回の给水车出动があった。饮料水対策として水源地の付け替えなどが行われ、农业用水対策としても立坑の底に设置されたタービンポンプにより扬水して给水するようになっている[167]。トンネル完成后も、高山立坑と四方木立坑は水道用の扬水施设として使用が継続されている[168]。农业用水に関しては、17亿3200万円の渡し切り补偿が村に対して行われ、これを原资に基金を设立して运用益により立坑と扬水施设の维持管理が行われてきた。しかし金融情势の変化により、年间数千万円に上る维持管理费を基金の运用で生み出すことは困难となってきた。また建设以来30年以上が経过して、安全性にも悬念がもたれるようになってきた。今后のことを考えると地下350メートルにある扬水ポンプを维持しながら农业経営を続けていくことは困难との考えになり、2015年度(平成27年度)までに维持管理费の少ない3か所の深井戸を掘って、ここからの给水に切り替えが行われた。それから3年を経ても特段水不足などの问题は生じなかったことから、扬水场を廃止する方向で村とJRの间で协议が行われている[169][170]

 
中山トンネル南口と放流塔。すぐ下に吾妻川が流れる。

完成后の坑内涌水は54トン/分程度で、このうち30トン/分程度は吾妻川に放流されている。本线101 km740 m地点に立坑が设置され、そこから国道353号の下を通って受水槽へ送られ、放流塔から吾妻川に放流されている[171]

年表

编辑
  • 1972年(昭和47年)
    • 2月8日 - 四方木工区発注[40]
    • 4月 - 四方木立坑着工[61]
    • 7月20日 - 中山立坑着工[92]
    • 8月 - 高山立坑着工[81]
    • 9月1日 - 小野上南工区着工[35]
  • 1973年(昭和48年)
    • 1月10日 - 名胡桃工区着工[35]
    • 1月27日 - 高山立坑掘削开始[83]
    • 3月1日 - 小野上北斜坑着工[36]
    • 10月12日 - 中山立坑坑底到达[92]
  • 1974年(昭和49年)
    • 1月31日 - 中山立坑バントン工事着手[93]
    • 5月3日 - 中山立坑バントン工事完了[93]
    • 7月 - 中山工区本坑掘削开始[106]
    • 9月27日 - 小野上北斜坑出水事故[96]
  • 1975年(昭和50年)
    • 11月 - 小野上北斜坑経路変更工事着手[96]
  • 1976年(昭和51年)
    • 5月 - 中山工区侧壁导坑においてロックボルト试験施工开始[111]
    • 6月4日 - 高山立坑坑底到达[80]
    • 7月5日 - 小野上北斜坑掘削中止[97]
    • 7月31日 - 名胡桃工区竣工[35]
    • 8月12日 - 四方木立坑坑底到达[67]
    • 10月15日 - 高山立坑バントン工事着手[91]
    • 11月18日 - 小野上北斜坑の継続を断念、小野上北工区の契约を解除し廃止[37]
  • 1977年(昭和52年)
    • 3月 - 名胡桃工区侧から中山工区のNATMによる掘削を开始[172]
    • 4月27日 - 四方木立坑バントン工事着手[42]
    • 5月15日 - 高山立坑バントン工事完了[91]
    • 6月 - 高山工区本坑掘削开始[136]
    • 10月 - 名胡桃工区侧からの迎え掘りにより中山工区まで贯通[116]
    • 11月30日 - 四方木立坑バントン工事完了[42]
    • 12月 - 四方木工区本坑掘削开始[118]
  • 1978年(昭和53年)
    • 4月 - 四方木工区迂回坑着工[119]
  • 1979年(昭和54年)
    • 2月23日 - 四方木工区新潟方迂回坑完成[122]
    • 3月18日 - 四方木工区出水事故[123]
    • 5月1日 - 四方木工区出水地点の闭塞のためのボーリング作业开始[118]
    • 9月17日 - 四方木工区排水完了[131]
    • 9月20日 - 1回目のルート変更を公団総裁に上申[134]
    • 9月27日 - 1回目のルート変更を承认[134]
    • 10月 - 高山工区大宫方迂回坑完成[173]
  • 1980年(昭和55年)
    • 2月末 - 四方木工区复旧工事完了[118]
    • 3月8日 - 高山工区出水事故[142]
    • 4月23日 - 高山工区出水地点の闭塞のためのボーリング作业开始[174]
    • 8月20日 - 高山工区排水完了[155]
    • 8月27日 - 四方木工区排水完了[155]
    • 11月上旬 - 四方木・高山両工区复旧工事完了[146]
    • 11月27日 - 施工再开[175]
  • 1981年(昭和56年)
    • 1月7日 - 2回目のルート変更を公団総裁に上申[27]
    • 1月30日 - 2回目のルート変更を承认[27]
    • 6月 - 坑外注入を完了[154]
    • 7月27日 - 四方木工区と小野上南工区の间の迂回坑が贯通、これにより全工区の间が贯通[158]
    • 10月 - 高山工区新潟方本坑掘削完了[140]
    • 11月 - 高山工区大宫方本坑掘削完了[145]
    • 11月末 - 小野上南工区本坑掘削完了[159]
    • 12月 - 中山工区本坑完成[106]
    • 12月23日 - 四方木工区と小野上南工区の间の本坑が贯通、中山トンネル全区间の本坑が贯通[159]
  • 1982年(昭和57年)
    • 3月17日 - 中山トンネル完成式[160]
    • 4月 - 轨道敷设工事完了[60]
    • 5月 - 电気工事完了[60]
    • 7月23日 - 全线试运転开始[162]
    • 11月15日 - 供用开始[162]

技术的な影响と教训

编辑

中山トンネルは、日本のトンネル建设史上屈指の难工事として知られるようになった[114]。これは事前の地质调查をろくに行わずに建设するという、技术の基本を无视した行いの结果であった[176]。中山トンネルや、ちょうど同时期に公団が建设を进めていた北越急行ほくほく线で建设に19年を要した锅立山トンネルの教训を受けて、改めて事前の地质调查と慎重なルート选定の重要性が広く认识されることになった。以降は、新干线といえども直线的なルート选定に必ずしもこだわらず、北陆新干线饭山トンネルのように难工事となる地层を最短距离で横断できるように曲线を描いた线形が采用されるようになった。これにより建设费の低减にも效果を発挥している[177]

新たに导入された工法

编辑

今回の中山トンネル工事では日本で初めて、新オーストリアトンネル工法 (NATM) が导入された。これは巨大な膨圧に対応するために导入された一手法であったが、その成功にトンネル技术者からの注目が集まった[178]。さらに同时期に、オーストリアでNATMの视察をして帰国した日本国有铁道(国铁)の技术者が、多くのトンネルでNATMによる施工に切り替えを断行したこともあり、NATMの采用が広がっていった。当初は惯れない吹付コンクリートの作业に手间取り、工期が长引いて工费が高腾するとの反対もあったが、惯れるにつれて作业が1か所に集中して管理しやすいことや作业员を减らせること、落石による事故を防げること、そして工费も低减できることがわかってきた[179]

本格导入から10年も経たない1987年度(昭和62年度)、土木学会はトンネル标准示方书を改定し、NATMをトンネル工事の标准工法と定め、従来の钢制支保工を用いた工法を特殊工法とした[180]。中山トンネルでのNATM施工は、それまで个别作业员の能力に赖ることの多かったトンネル掘削を初めて工学と呼べる水准に引き上げ、その后の日本のトンネル工学の発展に大きく寄与した[178]

薬液を注入する工法についても、中山トンネルが大きな役割を果たした。注入工法は古くから地质の悪いところを改良する方法として使われてきたが、信赖性のある手法とは言えなかった。中山トンネルの厳しい条件下で失败を缲り返しながら注入剤と注入方法の改良が进められ、初めて信赖性のある工法として定着することになった。有机廃液によるバクテリア発生の问题を解决するために、実験段阶であった新しい注入剤を试行し、これは后のトンネル工事において広く使われるようになった。中山トンネル以降では、注入工法はトンネル工事だけではなく地盘改良などにも多用される技术となった[178][181]

脚注

编辑
  1. ^ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 “火山泥流と膨圧との闘い”p.51
  2. ^ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’付录の縦断面図
  3. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・新潟间)’pp.32, 38
  4. ^ 4.0 4.1 ‘上越新干线工事志(大宫・新潟间)’pp.93 - 94
  5. ^ 5.0 5.1 5.2 5.3 “立坑の多量涌水と対策 上越新干线中山トンネル”p.46
  6. ^ ‘上越新干线物语1979’p.34
  7. ^ ‘上越新干线物语1979’p.36
  8. ^ ‘上越新干线物语1979’p.38
  9. ^ 9.0 9.1 9.2 ‘上越新干线物语1979’pp.39 - 41
  10. ^ ‘上越新干线 トンネルと豪雪に挑む男たち’pp.74 - 75, 80 - 82
  11. ^ 大熊孝. 治水面からみた八ッ場ダムについて. 群马県议会. 2010-01-22 [2012-04-01] (日语). 
  12. ^ 12.0 12.1 12.2 ‘上越新干线物语1979’pp.42 - 43
  13. ^ 13.0 13.1 ‘铁道ルート形成史’pp.175 - 176
  14. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・新潟间)’p.26
  15. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.25
  16. ^ ‘上越新干线物语1979’p.71
  17. ^ 17.0 17.1 ‘东北・上越新干线’pp.80 - 88
  18. ^ “北向きのshinkansen”p.6
  19. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・新潟间)’p.94
  20. ^ ‘东北・上越新干线’pp.64 - 65
  21. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・新潟间)’pp.94 - 95
  22. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・新潟间)’p.95
  23. ^ 23.0 23.1 23.2 ‘上越新干线工事志(大宫・新潟间)’pp.96 - 97
  24. ^ ‘上越新干线物语1979’pp.16 - 18
  25. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・新潟间)’pp.253 - 254
  26. ^ 26.0 26.1 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.668
  27. ^ 27.0 27.1 27.2 27.3 27.4 27.5 27.6 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.824
  28. ^ “火山泥流と膨圧との闘い”p.45
  29. ^ 29.0 29.1 ‘上越新干线物语1979’pp.50 - 51
  30. ^ “火山泥流と膨圧との闘い”pp.44 - 45
  31. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’pp.710 - 713
  32. ^ 32.0 32.1 32.2 32.3 32.4 “火山泥流と膨圧との闘い”p.46
  33. ^ ‘上越新干线物语1979’pp.55 - 56
  34. ^ 34.0 34.1 34.2 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.669
  35. ^ 35.00 35.01 35.02 35.03 35.04 35.05 35.06 35.07 35.08 35.09 35.10 35.11 35.12 35.13 35.14 35.15 35.16 35.17 35.18 35.19 35.20 35.21 35.22 35.23 35.24 35.25 35.26 35.27 35.28 35.29 35.30 35.31 35.32 35.33 35.34 35.35 35.36 35.37 35.38 35.39 35.40 35.41 35.42 35.43 35.44 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.670
  36. ^ 36.0 36.1 36.2 36.3 36.4 36.5 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.710
  37. ^ 37.0 37.1 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.713
  38. ^ 38.00 38.01 38.02 38.03 38.04 38.05 38.06 38.07 38.08 38.09 38.10 38.11 38.12 38.13 38.14 38.15 38.16 38.17 38.18 “上越新干线中山トンネル四方木立て坑工事”p.26
  39. ^ 39.0 39.1 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.714
  40. ^ 40.0 40.1 40.2 40.3 40.4 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.682
  41. ^ “中山トンネル300m立坑工事”p.46
  42. ^ 42.0 42.1 42.2 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.694
  43. ^ 43.0 43.1 43.2 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.701
  44. ^ ‘上越新干线物语1979’p.53
  45. ^ 45.00 45.01 45.02 45.03 45.04 45.05 45.06 45.07 45.08 45.09 ‘上越新干线工事志(大宫・新潟间)’p.259
  46. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.672
  47. ^ 47.0 47.1 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.673
  48. ^ ‘上越新干线物语1979’pp.47 - 48
  49. ^ ‘上越新干线物语1979’pp.48 - 49
  50. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.674
  51. ^ ‘上越新干线物语1979’p.49
  52. ^ 52.0 52.1 ‘上越新干线物语1979’pp.49 - 50
  53. ^ ‘上越新干线物语1979’pp.22 - 23
  54. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.675
  55. ^ ‘上越新干线物语1979’p.50
  56. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・新潟间)’p.34
  57. ^ 57.0 57.1 ‘上越新干线物语1979’p.66
  58. ^ ‘上越新干线物语1979’p.68
  59. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・新潟间)’pp.36 - 37
  60. ^ 60.0 60.1 60.2 60.3 60.4 ‘上越新干线工事志(大宫・新潟间)’p.44
  61. ^ 61.0 61.1 61.2 ‘上越新干线物语1979’p.56
  62. ^ 62.0 62.1 62.2 62.3 62.4 62.5 62.6 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.683
  63. ^ “立坑の多量涌水と対策 上越新干线中山トンネル”p.48
  64. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.684
  65. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’pp.684 - 685
  66. ^ “立坑の多量涌水と対策 上越新干线中山トンネル”pp.54 - 55
  67. ^ 67.0 67.1 67.2 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.687
  68. ^ “立坑の多量涌水と対策 上越新干线中山トンネル”p.49
  69. ^ 69.0 69.1 69.2 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.686
  70. ^ ‘上越新干线物语1979’p.57
  71. ^ ‘上越新干线物语1979’p.58
  72. ^ 72.0 72.1 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’pp.686 - 687
  73. ^ ‘上越新干线物语1979’pp.58 - 60
  74. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’pp.693 - 694
  75. ^ ‘上越新干线 トンネルと豪雪に挑む男たち’pp.128 - 140
  76. ^ 76.0 76.1 “中山トンネル立坑の施工 上越新干线”pp.634 - 635
  77. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.861
  78. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’pp.861 - 862
  79. ^ “上越新干线中山トンネル四方木立て坑工事”p.32
  80. ^ 80.0 80.1 80.2 80.3 80.4 “中山トンネル300m立坑工事”p.39
  81. ^ 81.0 81.1 ‘上越新干线物语1979’p.61
  82. ^ ‘上越新干线物语1979’pp.61 - 62
  83. ^ 83.0 83.1 “中山トンネル300m立坑工事”p.40
  84. ^ “涌水と闘う立坑工事 上越新干线中山トンネル”p.22
  85. ^ ‘上越新干线物语1979’pp.63 - 64
  86. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.699
  87. ^ “中山トンネル300m立坑工事”p.41
  88. ^ “涌水と闘う立坑工事 上越新干线中山トンネル”p.23
  89. ^ ‘上越新干线物语1979’pp.64 - 66
  90. ^ “中山トンネル300m立坑工事”pp.41 - 42
  91. ^ 91.0 91.1 91.2 “中山トンネル300m立坑工事”p.47
  92. ^ 92.0 92.1 92.2 92.3 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.705
  93. ^ 93.0 93.1 93.2 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.708
  94. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’pp.709 - 710
  95. ^ ‘上越新干线物语1979’p.52
  96. ^ 96.0 96.1 96.2 96.3 96.4 96.5 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.711
  97. ^ 97.0 97.1 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’pp.712 - 713
  98. ^ “中山トンネルの施工”p.49
  99. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.807
  100. ^ 100.0 100.1 “完成した中山トンネル”p.49
  101. ^ 101.0 101.1 “中山トンネルの施工”p.44
  102. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’pp.805 - 807
  103. ^ ‘上越新干线物语1979’p.51
  104. ^ 104.0 104.1 104.2 “中山トンネルの施工”p.45
  105. ^ ‘上越新干线物语1979’p.162
  106. ^ 106.0 106.1 106.2 106.3 106.4 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.725
  107. ^ “中山トンネルにおけるNATM施工”p.42
  108. ^ “火山泥流と膨圧との闘い”pp.46 - 47
  109. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.729
  110. ^ 110.0 110.1 “火山泥流と膨圧との闘い”p.47
  111. ^ 111.0 111.1 111.2 “膨张性地山に対するロックボルトの施工 (上) 上越新干线中山トンネル”p.490
  112. ^ “膨张性地山に対するロックボルトの施工 (下) 上越新干线中山トンネル”pp.571 - 572
  113. ^ “火山泥流と膨圧との闘い”pp.47 - 48
  114. ^ 114.0 114.1 ‘上越新干线物语1979’p.181
  115. ^ “膨圧トンネルにおけるロックボルト工 上越新干线中山トンネル”pp.15 - 16
  116. ^ 116.0 116.1 “完成した中山トンネル”p.50
  117. ^ 公益社団法人 土木学会賞 昭和53年度受賞一覧. 土木学会. [2012-04-17] (日语). 
  118. ^ 118.0 118.1 118.2 118.3 118.4 118.5 118.6 “上越新干线中山トンネルの工事概要”p.523
  119. ^ 119.0 119.1 119.2 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.717
  120. ^ 120.0 120.1 120.2 “完成した中山トンネル”p.51
  121. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.718
  122. ^ 122.0 122.1 122.2 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.719
  123. ^ 123.0 123.1 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.808
  124. ^ 124.0 124.1 “水没事故とその复旧工事 上越新干线中山トンネル四方木工区”p.44
  125. ^ “水没事故とその复旧工事 上越新干线中山トンネル四方木工区”pp.42 - 44
  126. ^ 126.0 126.1 126.2 126.3 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.809
  127. ^ ‘上越新干线物语1979’pp.25 - 27
  128. ^ 128.0 128.1 ‘上越新干线物语1979’pp.27 - 29
  129. ^ ‘上越新干线 トンネルと豪雪に挑む男たち’pp.151 - 152
  130. ^ ‘上越新干线物语1979’p.33
  131. ^ 131.0 131.1 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.810
  132. ^ “水没事故とその复旧工事 上越新干线中山トンネル四方木工区”p.50
  133. ^ ‘上越新干线 トンネルと豪雪に挑む男たち’pp.153 - 155
  134. ^ 134.0 134.1 134.2 134.3 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.822
  135. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’pp.822 - 823
  136. ^ 136.0 136.1 ‘上越新干线物语1979’p.101
  137. ^ 137.0 137.1 “地上360mからの薬液注入工事 上越新干线中山トンネル高山工区”p.26
  138. ^ 138.0 138.1 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.785
  139. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’pp.720 - 722
  140. ^ 140.0 140.1 140.2 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.671
  141. ^ ‘上越新干线物语1979’pp.103 - 105
  142. ^ 142.0 142.1 142.2 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.812
  143. ^ ‘上越新干线物语1979’p.113
  144. ^ “完成した中山トンネル”p.53
  145. ^ 145.0 145.1 145.2 “地上360mからの薬液注入工事 上越新干线中山トンネル高山工区”p.27
  146. ^ 146.0 146.1 146.2 146.3 146.4 “上越新干线中山トンネルの工事概要”p.524
  147. ^ ‘上越新干线物语1979’pp.124 - 125
  148. ^ ‘上越新干线物语1979’pp.137 - 138
  149. ^ 149.0 149.1 ‘上越新干线 トンネルと豪雪に挑む男たち’p.155
  150. ^ “火山泥流と膨圧との闘い”p.50
  151. ^ ‘上越新干线物语1979’p.141
  152. ^ ‘上越新干线物语1979’pp.146 - 147
  153. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・新潟间)’p.706
  154. ^ 154.0 154.1 ‘上越新干线物语1979’p.145
  155. ^ 155.0 155.1 155.2 ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.814
  156. ^ “完成した中山トンネル”pp.58 - 59
  157. ^ ‘上越新干线物语1979’p.172
  158. ^ 158.0 158.1 ‘上越新干线物语1979’pp.167 - 168
  159. ^ 159.0 159.1 159.2 ‘上越新干线物语1979’pp.174 - 175
  160. ^ 160.0 160.1 ‘上越新干线物语1979’p.180
  161. ^ “中山トンネルにおける轨道工事の急速施工について”p.594
  162. ^ 162.0 162.1 162.2 ‘上越新干线工事志(大宫・新潟间)’p.707
  163. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・新潟间)’p.265
  164. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・新潟间)’p.709
  165. ^ 165.0 165.1 ‘上越新干线物语1979’pp.188 - 189
  166. ^ ‘上越新干线物语1979’pp.85 - 92
  167. ^ ‘上越新干线物语1979’pp.96 - 97
  168. ^ ‘上越新干线物语1979’pp.191 - 193
  169. ^ 農業用水事業特別会計 (PDF). たかやま议会だより (群马県高山村议会). 2017年11月, (64): 5 (日语). 
  170. ^ 農業用水事業特別会計 (PDF). たかやま议会だより (群马県高山村议会). 2020年5月, (74): 5 (日语). 
  171. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’pp.805 - 806
  172. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.737
  173. ^ ‘上越新干线物语1979’p.105
  174. ^ “完成した中山トンネル”p.54
  175. ^ ‘上越新干线工事志(大宫・水上间)’p.715
  176. ^ ‘トンネルものがたり’序文iii - iv
  177. ^ ‘上越新干线物语1979’pp.182 - 184
  178. ^ 178.0 178.1 178.2 ‘上越新干线物语1979’pp.181 - 182
  179. ^ ‘トンネルものがたり’pp.163 - 166
  180. ^ ‘トンネルものがたり’pp.170 - 176
  181. ^ ‘トンネルものがたり’pp.117 - 118

参考文献

编辑

书籍

编辑

雑志记事・论文

编辑
  • 平沢市郎、饭田茂、森乔、山本松生. 立坑の多量湧水と対策 上越新幹線中山トンネル. トンネルと地下 (土木工学社). 1974年1月, 5 (1): 46 – 57 (日语). 
  • 串山纯孝、小林素一. 湧水と闘う立坑工事 上越新幹線中山トンネル. トンネルと地下 (土木工学社). 1975年6月, 6 (6): 15 – 25 (日语). 
  • 新井田四郎、须贺武. 膨圧トンネルにおけるロックボルト工 上越新幹線中山トンネル. トンネルと地下 (土木工学社). 1977年4月, 8 (4): 12 – 20 (日语). 
  • 大贯富夫、小林素一、北川修三. 水没事故とその復旧工事 上越新幹線中山トンネル四方木工区. トンネルと地下 (土木工学社). 1980年11月, 11 (11): 51 – 50 (日语). 
  • 大贯富夫、北川修三. 地上360mからの薬液注入工事 上越新幹線中山トンネル高山工区. トンネルと地下 (土木工学社). 1982年2月, 13 (2): 25 – 31 (日语). 
  • 藤森房司. 火山泥流と膨圧との闘い--上越新幹線中山トンネル(上越新幹線開業特集). トランスポート (运输省大臣官房). 1982年11月, 32 (11): 44 – 51 (日语). 
  • 平泽市郎、今村一郎、小林素一. 上越新幹線中山トンネル四方木立て坑工事. 土木施工 (山海堂). 1975年12月, 16 (15): 26 – 32 (日语). 
  • 须贺武、土谷覚、山本武文. 中山トンネル300m立坑工事. 土木施工 (山海堂). 1977年11月, 18 (16): 39 – 47 (日语). 
  • 大贯富夫. 中山トンネルの施工. 土木施工 (山海堂). 1982年4月, 23 (5): 43 – 54 (日语). 
  • 平沢市郎、须贺武. 中山トンネル立坑の施工 上越新幹線. 铁道土木 (日本铁道施设协会). 1976年9月, 18 (9): 631 – 635 (日语). 
  • 须贺武. 膨張性地山に対するロックボルトの施工 (上) 上越新幹線中山トンネル. 铁道土木 (日本铁道施设协会). 1977年7月, 19 (7): 487 – 491 (日语). 
  • 须贺武. 膨張性地山に対するロックボルトの施工 (下) 上越新幹線中山トンネル. 铁道土木 (日本铁道施设协会). 1977年8月, 19 (8): 569 – 572 (日语). 
  • 藤森房司、北川修三. 上越新幹線中山トンネルの工事概要. 铁道土木 (日本铁道施设协会). 1982年7月, 24 (7): 521 – 526 (日语). 
  • 笹尾祯. 完成した中山トンネル. 土木技术 (理工図书). 1982年2月, 37 (7): 25 – 31 (日语). 
  • 须贺武. 中山トンネルにおけるNATM施工. 施工技术 (日刊工业新闻社). 1977年11月, 10 (11): 40 – 46 (日语). 
  • 小林正一、中井稔博. 中山トンネルにおける軌道工事の急速施工について. 铁道线路 (日本保线协会). 1982年10月, 30 (10): 592 – 596 (日语). 
  • 北向きのshinkansen. 铁道ピクトリアル (电気车研究会). 2005-12-01, (769): 1 – 7 (日语). 

相关条目

编辑

外部链接

编辑