日本年号
日本自第三十六代孝德天皇即位并建元大化起开始使用年号(日语:元号/げんごう Gengō)为其纪年方式。孝德天皇在其在位期间推行大化改新,而包括使用年号等新政策都对后世日本影响深远。孝德天皇建元大化后,日本在齐明天皇、天智天皇、弘文天皇及持统天皇在位期间停用年号,仅在天武天皇在位末年短暂使用年号数月,直至文武天皇于701年5月3日(大宝元年三月二十一日)再度恢复使用年号后,方持续使用年号至今。[1]
改元原因与程序
编辑在日本,改元的原因除天皇即位外,多数出于迷信及牵强附会[2]。因天皇即位而进行的改元通常在天皇即位翌年进行,但有时候也会因为乱世而不在天皇即位翌年改元[3]。在奈良时代与平安时代初期,天皇即位外的改元理由往往是出现祥瑞[4],而朝廷会命令学者寻找古籍中有关相关祥瑞的记载,并予以记录[5]。自平安时代中期(天德、应和年间)起,改元之事均载于改元宸记中,而改元的程序也演变为先由大臣上奏年号勘文,然后天皇于选定会议中决定新年号[6]。日本自醍醐天皇起开始因“辛酉革命”的缘故在辛酉年进行改元(当时为901年,由昌泰四年改元延喜)[3],并自村上天皇起开始因“甲子革令”的缘故在甲子年进行改元(当时为964年,改元康保)[7]。日本自醍醐天皇起也会因灾祸等不祥之事而改元(当时为923年,改元延长)[8]。
虽然自镰仓时代起,日本的政治实权落入武家手中,然而武家政权一般不会干涉朝廷进行改元,直至江户时代幕府方开始插手改元事务[9]。自江户时代起,幕府开始参与改元事务[10],而幕府所颁布的《禁中并公家诸法度》第八条规定“改元,汉朝年号之内,以吉例可相定;但重而于习礼相熟者,可为本朝光规之作法事”[11]即为其始。此前,改元于朝廷通知幕府后,于公达日召集大名与旗本宣布改元时即生效。然而,在江户时代,实际执行改元决策的权力转移至幕府,而朝廷在通知幕府改元后,改元须先经幕府在江户城向诸大名宣告,然后幕府自江户遣使向町奉行通知,町奉行再于町触上予以宣告后方得生效,而文武百官与庶民就算知道朝廷有意改元,在町触发布改元宣告前都不能径自先行使用新年号[12]。
自明治天皇颁布《明治改元之诏》后,正式确立一世一元制[13]。自此以后,一个天皇只会使用一个年号[14],因此只有在出现皇位继承的情况下才会出现改元的情形,而1979年(昭和五十四年)6月12日颁行的《元号法》也明确了此原则[15]。日本在近代改元时采“即日改元”(诏书上)或“即时改元”(教科书上)[注 1],改元于天皇崩御、改元诏书发布当日或天皇崩御当时生效[13][19][20][16][17],而在第二次世界大战结束后改元则采“(政令施行日)翌日改元”,改元于改元政令施行日翌日生效[21][22][18]。自启用“平成”年号以来,日本政府在改元时都会召开记者会,并由时任内阁官房长官公布新年号,而新年号的字样则会由时任辞令专门职书写[23][24]。
年号的时代特色
编辑日本的年号常取中国古籍中的辞句为典故[25],惟天皇德仁所使用的年号“令和”的典故出自《万叶集》,打破了年号典故引用中国古籍的惯例,成为首个引用日本经典的年号[26]。
奈良时代是日本唯一出现四字年号的时代[27]。奈良时代期间在位的光仁天皇所改的年号“天应”是日本唯一一个在正月初一日改元的年号[28]。《明德和约》缔结后的首个室町时代年号“应永”使用时间达33年又9个月又22日[29],是除一世一元制施行后所改的年号“明治”(使用时间43年又9个月又8日)[13][19]与“昭和”(使用时间62年又14日)[20][21]外使用时间最长的日本年号[30]。
南北朝时代是日本唯一长期出现两个年号并立的年代[27]。出自持明院统、受镰仓幕府拥立的北朝的首任天皇光严天皇[31]在1332年5月23日(元德四年/元弘二年四月二十八日)改元正庆,惟在1333年7月7日(正庆二年/元弘三年五月二十五日)被后醍醐天皇废位[32][33]。后醍醐天皇于1334年3月5日(元弘四年正月二十九日)改元建武[34],施行建武新政[35]。建武新政失败后,后醍醐天皇于1336年4月11日(建武三年二月二十九日)再改元延元,惟受足利氏拥立继位为北朝天皇的光严天皇之弟光明天皇[36]未有跟随,并在1338年10月11日(建武五年/延元三年八月二十八日)另行改元历应[34]。直至1392年11月12日(明德三年/元中九年闰十月初五日)《明德和约》缔结后,南朝“元中”年号遭废止,日本才终结了两个年号并立的局面[37]。
年号用字
编辑根据《日本年号史大事典》的统计,从日本的“大化”到“平成”共有247个公年号、504个汉字,扣除重复使用的汉字后,仅有72个不同的汉字,如下:[38]
次数 | 汉字 |
---|---|
29 | 永 |
27 | 元、天 |
21 | 治 |
20 | 应 |
19 | 正、长、文、和 |
17 | 安 |
16 | 延、历[注 2] |
15 | 宽、德、保 |
14 | 承 |
13 | 仁 |
12 | 嘉、平 |
10 | 康、宝 |
9 | 久、建、庆 |
8 | 享、弘、贞 |
7 | 明、禄 |
6 | 大 |
5 | 龟 |
4 | 寿、万 |
3 | 化、观、喜、神、政、中、养 |
2 | 云、护 |
1 | 干、感、吉、亨、兴、景、衡、国、齐、至、字、朱、授、胜、昌、昭、祥、成、泰、鸟、祯、同、铜、白、武、福、灵、老、祚、雉 |
注释
编辑参考资料
编辑- ^ 森本 1933,第3, 159-160页.
- ^ 森本 1933,第3, 7页.
- ^ 3.0 3.1 森本 1933,第8页.
- ^ 森本 1933,第14, 118页.
- ^ 森本 1933,第12, 14页.
- ^ 森本 1933,第15页.
- ^ 森本 1933,第10页.
- ^ 森本 1933,第12页.
- ^ 森本 1933,第39页.
- ^ 森本 1933,第15, 24, 39页.
- ^ 禁中並公家諸法度. 维基文库. 1615-09-09.
- ^ 久保 1998,第241-242页.
- ^ 13.0 13.1 13.2 今後年號ハ御一代一號ニ定メ慶應四年ヲ改テ明治元年ト爲ス及詔書. 维基文库. 1868-10-23.
- ^ 森本 1933,第294-296页.
- ^ 元号法. 维基文库. 1979-06-12.
- ^ 16.0 16.1
- 大正元年九月九日〔文部省〕圖書局照會 (报告). 文部省. 1912-09-09.
- 大正元年九月十一日內閣送第30號 (报告). 文部省. 1912-09-11. 30.
- 大正元年九月二十五日官圖第61號 (报告). 文部省. 1912-09-25. 61.
- ^ 17.0 17.1 七户 2017,第5-6页.
- ^ 18.0 18.1 七户 2017,第6页.
- ^ 19.0 19.1 明治四十五年七月三十日以後ヲ改メテ大正元年ト爲ス. 维基文库. 1912-07-30.
- ^ 20.0 20.1 昭和ト改元. 维基文库. 1926-12-25.
- ^ 21.0 21.1 元号を改める政令. 维基文库. 1989-01-07.
- ^ 元号を改める政令. 维基文库. 2019-04-01.
- ^ 谷津宪郎. 砂時計――無銘の2文字私がにじむ. 朝日新闻. 2009-10-25.
- ^ 新元号の「令和」 「令」は元号初 過去に候補もなし. NHK. 2019-04-01 [2019-04-01]. (原始内容存档于2019-04-01).
- ^ 森本 1933,第3页.
- ^ 新元号は「令和」(れいわ)万葉集典拠、国書由来は初. 朝日新闻. 2019-04-01 [2019-04-01]. (原始内容存档于2020-10-31).
- ^ 27.0 27.1 旺文社 2000,大化以後,奈良時代の四字年号,室町時代の私年号,南北朝の両朝別の年号などあるが,多くは,天皇代替りや,干支 (えと) によって改元された。.
- ^ 川村一彦. 宝亀の乱. 历史研究会. 2020-10-08: 85 [2020-11-29]. (原始内容存档于2021-03-23).
- ^ 森本 1933,第253页.
- ^ 森本 1933,第106页.
- ^ 小学馆 1994,北朝第1代の天皇(在位1331~33)。名は量仁(ときひと)。法名勝光智、のちに光智。後伏見(ごふしみ)天皇の第1皇子。母は広義門院寧子(やすこ)。元弘(げんこう)の変中鎌倉幕府の推戴(すいたい)によって皇位についたが、まもなく形勢が逆転し、六波羅探題(ろくはらたんだい)北条氏一族に奉ぜられて東国に逃れる途中、官軍に敗れて帰京した。その間に後醍醐(ごだいご)天皇から廃位せしめられた。.
- ^ 小学馆 1994,〔天皇〕【北朝】光厳(こうごん)〔改元理由〕即位による〔改元年月日〕元弘(げんこう)2年(1332)4月28日正慶と改元、正慶2年(1333)5月廃止(元弘3年に復す)〔出典〕『易経』益卦(えきか)の注「以中正有慶之徳、有攸往也、何適而不利哉」による.
- ^ デジタル大辞泉. 小学馆. 2012.
鎌倉末期、光厳天皇の時の年号。1332年4月28日~1333年5月25日。しょうけい。
- ^ 34.0 34.1 小学馆 1994,〔天皇〕【南朝】後醍醐(ごだいご)〔改元理由〕擾乱(じょうらん)帰正による〔改元年月日〕元弘(げんこう)4年(1334)1月29日建武と改元、建武3年(1336)2月29日延元(えんげん)と改む、北朝では建武5年(1338)8月28日暦応(りゃくおう)と改む〔出典〕後漢(ごかん)の光武帝のときの年号による、『後漢書(ごかんじょ)』巻1光武帝紀に「建元為建武」とある.
- ^ 小学馆 1994,いわゆる「建武中興(けんむのちゅうこう)」を実現した天皇。.
- ^ 小学馆 1994,北朝第2代の天皇(在位1336~48)。名は豊仁(とよひと)。法名真常恵。後伏見(ごふしみ)天皇の第2皇子。母は広義門院寧子(やすこ)。光厳(こうごん)天皇の弟で、その猶子(ゆうし)となった。建武中興(けんむのちゅうこう)崩壊ののち、足利(あしかが)氏に擁せられて皇位につき、のちこれを崇光(すこう)天皇に譲った。.
- ^ 日本の元号がわかる事典. 讲谈社.
しかし、1392年(元中9/明徳3)閏10月5日、吉野から京都に帰還した後亀山天皇が退位し、三種の神器が後小松天皇に渡されたことにより、半世紀におよぶ南北朝対立が終わった。「元中」の元号も廃され、「明徳」を使用することになった。
- ^ 久礼 2017,第733-743页.
- ^ 久礼 2017,第743页.
参考书籍
编辑- 森本角藏. 日本年號大觀. 东京: 目黑书店. 1933-07-01. doi:10.11501/1688696.
- 日本大百科全書. 小学馆. 1994-01-20.
- 元号. 旺文社日本史事典. 旺文社. 2000 [2020-11-29]. ISBN 9784010353134. (原始内容存档于2021-03-23).
- 久保贵子. 近世の朝廷運営 朝幕関係の展開. 岩田书院. 1998 [2021-11-01]. ISBN 978-4-87294-115-9. (原始内容存档于2021-10-09).
- 七户克彦. 皇位継承と改元に関する若干の覚書 (PDF). 福岡県土地家屋調査士会会報 (福冈县土地家屋调查士会). 2017, (122): 3–6 [2022-07-29]. (原始内容存档 (PDF)于2022-02-07).
- 久礼, 旦雄; 五岛, 邦治; 吉野, 健一; 桥本, 富太郎. 【重版出来】日本年号史大事典 普及版. 2017-01-20. ISBN 9784639024361.