六角時信佐佐木時信(日語:六角時信/佐々木 時信ろっかく ときのぶ/ささき ときのぶ Rokkaku Tokinobu/Sasaki Tokinabu,1306年—1346年9月17日)是日本鎌倉時代末期至南北朝時代武將、守護大名近江守護佐佐木氏嫡流六角氏第3代家督,父親是佐佐木賴綱日語佐々木頼綱

六角 時信
時代鎌倉時代末期 - 南北朝時代
出生日期德治元年(1306年)[1]
逝世日期興國7年或貞和2年8月26日(1346年9月17日)[1]
假名ろっかく ときのぶ
羅馬字Rokkaku Tokinobu
別名佐佐木時信
三郎
戒名大光寺殿別溪玄派[1]
朝廷官位左衛門尉日語衛門府[1]檢非違使[1]
幕府職位鎌倉幕府室町幕府近江守護
主君守邦親王足利尊氏
氏族六角氏佐佐木氏
父母父:佐佐木賴綱日語佐々木頼綱[1][2]
兄弟六角賴明
六角宗信
六角成綱
六角宗綱
姐妹太田時連日語太田時連正室
中山家親正室
六角氏賴日語六角氏頼
六角直綱
山內信詮
六角光綱

生涯

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時信的長兄六角賴明被廢嫡,其他兄長又早死,因此他在延慶3年(1311年)父親佐佐木賴綱日語佐々木頼綱死後繼任家督,成為近江守護。正和3年(1314年),時信元服[1][3][4]

時信與朝廷的關係深厚,在元德2年(1330年),後醍醐天皇行幸石清水八幡宮擔任橋渡,其後在元弘元年(1331年)爆發的元弘之亂中靠攏鎌倉幕府,在同年8月於近江唐崎日語唐崎 (大津市)與支持後醍醐天皇的延曆寺僧眾期交戰但不敵[1][5],後來後醍醐天皇在笠置山(現京都府相樂郡笠置町)舉兵,時信從山門東坂本日語坂本 (大津市)出兵,匯合六波羅探題軍一同在笠置山之戰攻擊後醍醐天皇軍。戰後,時信負責扣留後醍醐天皇之子尊良親王日語尊良親王

元弘3年(1333年),後醍醐天皇被流放後,時信在攝津天王寺(現大阪府大阪市天王寺區)鎮壓反對勢力。可是,當六波羅探題被靠攏天皇的足利尊氏攻陷後,時信誤接探題北條仲時日語北条仲時在近江戰死的消息而投降。

幕府滅亡後,時信在建武新政下出任雜訴決斷所日語雑訴決断所奉行南海道的七番局。其後,尊氏叛變後,時信亦跟隨,但是室町幕府近江守護的職位一度落入庶流京極氏家督佐佐木道譽手中。其後,時信出家,並且將家督之位讓給兒子六角氏賴日語六角氏頼,在興國7年或貞和2年8月26日(1346年9月17日)死去,享年41歲。

參考資料

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  1. ^ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 安田、1990年、p.242。
  2. ^ 尊卑分脈》等系圖顯示賴綱是時信之父,但是亦有些說法指時信是賴綱之孫,時信的父親為賴綱之子盛綱,時信乃祖父賴綱的養子(『デジタル版 日本人名大辭典+Plus』(コトバンク所収)「佐々木時信頁面存檔備份,存於互聯網檔案館)」の項 より)。実際、頼綱とは64歳離れているが、時信の生まれた當時はまだ頼綱は存命であったため、父子関係でも矛盾はない(紺野、1979年(『中央史學』二 p.17))。
  3. ^ 『尊卑分脈』
  4. ^ 「時」字是歷代佐佐木氏或六解氏均未有採用的,因此推斷是來自北條氏通字(參考文獻:山野龍太郎 「鎌倉期武士社會における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年))/田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)),即是從當時的得宗北條高時處拜領的(紺野、1979年(『中央史學』二 p.15系図・p.17))。「信」字則是來自曾祖父佐佐木信綱,同樣地時信的兄長們亦是由得宗家擔任烏帽子親(紺野、1979年(『中央史學』二 p.21))。
  5. ^ 『デジタル版 日本人名大辭典+Plus』(コトバンク所収)「佐々木時信」の項 より。

參考文獻

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