花房職秀
日本戰國時代至江戶時代初期的武將
此條目没有列出任何参考或来源。 (2019年5月25日) |
花房職秀(1549年—1617年3月18日)是日本戰國時代至江戶時代初期的武將。宇喜多氏家臣,後來成為德川氏家臣。父親是花房職勝(職治)。
花房 職秀 | |
---|---|
時代 | 日本戰國時代—江戶時代 |
出生日期 | 天文18年(1549年) |
逝世日期 | 元和3年2月11日(1617年3月18日) |
改名 | 職秀→職之 |
别名 | 助兵衛、若狹(通稱) |
戒名 | 道惠 |
墓所 | 岡山縣岡山市高松的妙玄寺 |
主君 | 宇喜多直家→秀家→德川家康 |
氏族 | 花房氏 |
父母 | 父:花房職勝 |
兄弟 | 兄:職澄 弟:勝元 |
正室 | 額田三河守的女兒 |
子 | 職則、榊原職直 |
日語寫法 | |
---|---|
日語原文 | 花房 職秀 |
假名 | はなぶさ もとひで |
平文式罗马字 | Hanabusa Motohide |
生平
编辑在天文18年(1549年)出生。父親職勝仕於備前國戰國大名宇喜多氏。
永祿10年(1567年),以足輕大將身份出陣,並在各地戰鬥。永祿12年(1569年),在備中國與毛利元就的四男穗井田元清交戰。天正5年(1570年),在美作國建築荒神山城,並負責經營。天正5年(1577年),與赤松氏、浦上氏交戰。天正7年(1579年),受主君宇喜多直家之命,攻陷後藤勝基的三星城,令其滅亡。
此後,宇喜多氏從屬於織田信長、豐臣秀吉。天正18年(1590年),在豐臣氏發起的小田原征伐中,亦有從軍。文祿4年(1595年),向宇喜多秀家諫言不要重用長船綱直一事,差點被殺,因為秀吉的仲介而無事,並在德川家康斡旋後,改為受常陸國佐竹義宣軟禁(一說指此事成為宇喜多氏在慶長4年(1599年)爆發御家騷動的遠因)。
慶長5年(1600年),在關原之戰中,在家康之下奮戰,受賜8千石所領,並列為旗本寄合席。慶長19年(1614年),在大坂之陣中,以年老之驅乘輿指揮,戰後,領地沒有加增。此後,毎年向被流放到八丈島的舊主秀家送予20俵米。
人物、逸話
编辑登場作品
编辑- 小説
参考文献
编辑- 戸川安吉. 浦上宇喜多両家記.写本は国立公文書館デジタルアーカイブ (页面存档备份,存于互联网档案馆)より閲覧可能。
- 加賀康之. 「戦国合戦」意外・驚きエピソード. PHP文庫. 2008.
- 畑和良. 文献史料から見た備前国の中世城館. 岡山県古代吉備文化財センター (编). 岡山県中世城館跡総合調査報告書 第1冊 備前編. 岡山県教育委員会. 2020-02-28 [2021-11-14]. (原始内容存档于2022-03-25).
- 畑和良. 備中国の政治・軍事動向と城館. 岡山県古代吉備文化財センター (编). 岡山県中世城館跡総合調査報告書 第2冊 備中編. 岡山県教育委員会. 2020-02-28 [2021-11-14]. (原始内容存档于2022-03-25).
- 「美作国の山城」編集委員会 2011 (编). 美作国の山城 改訂版. 岡山県津山市教育委員会生涯学習部文化課. 2011. doi:10.24484/sitereports.15557.
- 森俊弘. 史料紹介・弓斎叢書『花房家記事』―特に「高松小島氏旧記ノ写」について―. 吉備地方文化研究 (就実大学吉備地方文化研究所). 2004, (14).
- 森俊弘. 「高松小島氏旧記ノ写」―覚書記事から垣間見る岡山県地域の戦国時代史―. 吉備地方文化研究 (就実大学吉備地方文化研究所). 2005, (15).
- 森俊弘. 宇喜多直家の権力形態とその形成過程. 岡山地方史研究 (岡山地方史研究会). 2006, (109).
- 森俊弘. 文献史料から見た中世美作国の政治動向と戦乱. 岡山県古代吉備文化財センター (编). 岡山県中世城館跡総合調査報告書 第3冊 美作編. 岡山県教育委員会. 2020-02-28 [2021-11-14]. (原始内容存档于2022-03-25).
- 渡邊大門. 戦国織豊期宇喜多氏の領国支配―家臣団編成を中心にして―. 戦国期 浦上氏・宇喜多氏と地域権力. 中世史研究叢書19. 岩田書院. 2011. ISBN 978-4-87294-698-7.
- 寛永諸家系図伝, 清和源氏乙五国立公文書館デジタルアーカイブより閲覧可能。