椎谷藩
苅谷藩(日语:苅谷藩/かりやはん Kariya-han */?)是日本上总国夷隅郡苅谷的藩[注 1],宽永19年闰9月1日(1642年1月31日)创藩[2],宽文8年12月27日(1669年1月29日)转移至上总国市原郡八幡而改称八幡藩(日语:八幡藩/やわたはん Yawata-han */?)[注 2],元禄11年3月11日(1698年4月21日)再转移至越后国刈羽郡椎谷而改称椎谷藩(日语:椎谷藩/しいやはん Shīya-han */?)[注 3],明治4年7月14日(1871年8月29日)废藩[4][5]。
椎谷藩 | |
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谱代 阵屋 定府 | |
别称 | 苅谷藩 八幡藩 |
日语汉字 | 椎谷藩 |
平假名 | しいやはん |
罗马拼音 | Shīya-han |
创藩日期 | 宽永19年闰9月1日(1642年1月31日) |
大名家 | 堀家 |
伺候席 | 菊间广缘,宽政4年(1792年) 菊间,文政4年和元治元年(1821年和1864年) 菊间→芙蓉间,堀之敏时期 |
石高 | 10,000石 |
藩校 | 修道馆 |
人口 | 2,303户10,918人 |
废藩日期 | 明治4年7月14日(1871年8月29日) |
废藩理由 | 废藩置县 |
爵位 | 子爵 |
石高是10,000石,藩厅先后是苅谷阵屋、八幡阵屋和椎谷阵屋[4][5],藩校是修道馆[6],人口是2,303户10,918人[5]。武家屋敷方面,江户藩邸上屋敷设于松岛町,下屋敷设于今里村[7][注 4]。
历史
编辑元和元年(1615年),堀直之由于在大坂之阵建功获赐武藏国儿玉郡内1,000石作为领地。翌年(1616年)7月,直之获加增至越后国刈羽郡5,000石以及新田500石[注 5],并且在刈羽郡妙法寺村的超愿寺设置临时阵屋[注 6]。元和5年(1619年),阵屋迁移至刈羽郡椎谷。宽永10年(1633年)4月,他获加增上总国夷隅郡、埴生郡、市原郡和长柄郡内4,000石,并且将阵屋转移至夷隅郡苅谷[4][8][9]。
宽永19年闰9月1日(1642年1月31日),直之嫡子堀直景继位。由于他原本已领有2,000石,涵盖相模国高座郡和下总国香取郡内500石、武藏国高丽郡[注 7]、上总国埴生郡和下总国香取郡内500石、甲斐国八代郡和山梨郡内1,000石,因此2,000石中的1,500石中由其弟堀直氏继承,直景则继承剩余的500石以及直之的遗领9,500石,以10,000石创建苅谷藩[2]。
宽文8年8月10日(1669年1月29日),直景嫡子堀直良继位。同年12月27日(1669年1月29日),他将阵屋转移至市原郡八幡而创立八幡藩[注 8]。元禄4年4月26日(1691年5月23日),直良长子堀直宥继任。元禄11年3月11日(1698年4月21日),领地替地至越后国刈羽郡、三岛郡和蒲原郡,阵屋也转移至刈羽郡椎谷的唐箕前而创立椎谷藩[2][5][9]。
正德元年7月29日(1711年9月11日),直宥长子堀直央继位,同年的领地是刈羽郡23村约5,510石、三岛郡8村约2,255石和蒲原郡4村约2,244石。正德5年(1715年),他将阵屋转移至现址的打越。享保5年4月29日(1720年6月4日),直央隐居,由其弟堀直恒继位。享保15年12月26日(1731年2月2日),直央次子堀直旧作为直恒养子而继位。延享5年(1748年)6月,直旧病危时虽然获第八任江户幕府将军德川吉宗先后派医师井上俊良以及小笠原政登前来探病,最终在6月20日(7月15日)死去。宽延元年9月15日(1748年10月7日),直恒次子堀直喜作为直旧养子而继位[9][11][3]。
宽延4年7月16日(1751年9月5日),信浓须坂藩藩主堀直英三子堀直著作为直喜的末期养子而继位。明和5年6月22日(1768年8月4日),直著嫡子堀直宣继位。天明元年10月6日(1781年11月21日),直宣之弟堀著朝继位[11]。天明6年12月(1787年1月或2月),由于天明大饥荒导致米价高腾,椎谷藩的藏米改为以招标形式发售,此举引发藩领刈羽郡和三岛郡内31村的百姓发起名为天明义民事件的一揆,继而控诉藩政腐败和对领民实施苛政[5][3]。
宽政4年7月6日(1792年8月23日),在经过江户幕府五度讨论后,著朝被迫隐居,并且由三河西尾藩藩主松平乘祐三子作为着朝养子而继位,即堀直起。同年8月24日(10月9日),刈羽郡3村内500石以及三岛郡8村和蒲原郡4村总共5,000石作为惩罚虽然被江户幕府没收,但是同时也获赐信浓国水内郡内2村和高井郡内9村5,000石,并且在高井郡六川设置阵屋[注 9]。文化5年2月22日(1808年3月18日),备前冈山藩藩主池田治政三子作为直起养子而继位,即堀直温[5][3]。文化9年7月10日(1812年8月16日),肥前唐津藩藩主水野忠光三子作为直温养子而继位,即堀直哉。文政13年10月25日(1830年12月9日),直哉嫡子堀之敏继位。安政7年正月15日(1860年2月6日),他就任为若年寄。文久3年2月1日(1863年3月19日),之敏之子堀之美继位[11][13]。
戊辰战争爆发后,椎谷藩在庆应4年3月15日(1868年4月7日)归顺于新政府军。同年4月25日(5月17日),椎谷藩派兵前往饭山与冲锋队交战,闰4月27日(6月17日)又在鲸波战争与奥羽越列藩同盟的盟军伊势桑名藩交战。5月3日(6月22日),椎谷阵屋被常陆水户藩兵包围,其后在5月6日(6月25日)获萨摩藩和长州藩支援下虽然成功击退敌军,但是两藩在同日傍晚撤军后又再次遭到水户藩兵攻击,阵屋也被焚毁,最终在萨摩藩和长州藩再次支援下,水户藩兵才败走。随着北越战争结束,椎谷藩也在明治元年10月7日(1868年11月20日)退兵[14]。明治4年7月14日(1871年8月29日),废藩置县[5]。
历任藩主
编辑家名 | 家格 | 名称 | 石高 | 领地 |
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堀家 | 谱代 阵屋 |
堀直景 | 10,000石 | 越后国刈羽郡[注 5] 上总国夷隅郡、埴生郡、市原郡和长柄郡 下总国香取郡 武藏国高丽郡[注 7] |
堀直良 | ||||
堀直宥 | 越后国刈羽郡 上总国夷隅郡、埴生郡、市原郡和长柄郡 下总国香取郡 武藏国高丽郡 ↓ 越后国刈羽郡、三岛郡和蒲原郡
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堀直央 | 越后国刈羽郡、三岛郡和蒲原郡 | |||
堀直恒 | ||||
堀直旧 | ||||
堀直喜 | ||||
堀直著 | ||||
堀直宣 | ||||
堀著朝 | 越后国刈羽郡、三岛郡和蒲原郡 ↓ 越后国刈羽郡信浓国水内郡和高井郡 | |||
堀直起 | 越后国刈羽郡 信浓国水内郡和高井郡 | |||
堀直温 | ||||
堀直哉 | ||||
堀之敏 | ||||
堀之美 |
领地
编辑令制国 | 郡 | 领地 |
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越后国 | 椎谷町村、滨忠村、大崎村、大津村、甲田村、上山田村、伊毛村、下山田村、藤 | |
上总国 | 苅谷村、国府台村、深谷村、八乙女村、行川村、 | |
埴生郡(3村) | 石神村、千田村、棚毛村 | |
市原郡(4村) | 八幡村、平藏村、小草畑村、米原村 | |
长柄郡(1村) | 初柴村 | |
下总国 | 香取郡(2村) | 新市场村、米野井村 |
武藏国 | 川崎村 |
令制国 | 郡 | 领地 |
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信浓国 | 水内郡 | 中御所村、问御所村 |
高井郡 | 中条村、大熊村、奥山田村、六川村、清水村、羽场村、中山田村 | |
越后国 | 苅羽郡 | 大津村、大崎村、甲田村、滨忠村、椎谷町、镰田村、礼拜村、下山田村、伊毛村、上山田村、藤挂村、池浦村、坂田村、鬼王村、妙法寺村、北野村、内方村、十日市村、五日市村、和田村、旧广田村 |
注解
编辑- ^ 苅谷现为千叶县夷隅市苅谷[1]。
- ^ 八幡现为千叶县市原市八幡[1]。
- ^ 椎谷现为新潟县柏崎市椎谷[3]。
- ^ 现行对应地名如下[7]:
- ^ 5.0 5.1 5.2 刈羽郡在江户时代被江户幕府误称为沼垂郡[3]。
- ^ 妙法寺村现为柏崎市西山町妙法寺[3]。
- ^ 7.0 7.1 7.2 《日本历史地名大系》称实为入间郡[10]。
- ^ 直良在八幡设置阵屋的说法仅见于《宽政重修诸家谱》等文献,另一方面根据《大武鉴》记载,他在宽文9年(1669年)、延宝3年(1675年)和天和3年(1683年)等时期均定居于越后国,元禄年间(1688年至1704年)时也有记载为越后村松,因此有可能根本没有在八幡设置阵屋。然而,由于堀家在元禄4年(1691年)曾经寄进藏米至饭香冈八幡宫,因此《日本历史地名大系》推测就算没有设置阵屋,也至少在八幡设有管辖上总国或市原郡内领地的役所。此外,大久保忠高在同时期也在八幡设有阵屋[10]。
- ^ 六川现为长野县上高井郡小布施町都住[12]。
参考资料
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