用户:Hamham/中国书法史

兰亭序》(部分)王羲之
中秋帖王献之

中国书法史,记述有史以来至清代为止的中国书法发展史,包括历史背景、书体变迁、书法风格、著名作品、书法家以及中国书法理论等书法相关的内容。

概论 编辑

汉字从创造出来起就はその成立した当初から美への意识を刺激するものであった。よって、汉字と书の结合は初めから约束されていたといえよう。汉字の构造的な字形构成は、复雑のうちに変化と求心的な统一原理がはたらいており、その変化と统一の融合は、様式としての美を追求するにふさわしい形态である。事実、最古の文字资料である殷代甲骨文は、すでにすぐれた様式美を达成している。また、汉字の点画几何学的な线ではなく、すぐれた画家がその描线を以て事物の本质にせまろうとする律动的な线の描出法に似ている。このように汉字はその结体において字の起原的な形态を明确に示しながら、なお文字としての美をも志向しており、その他の古代文字とは本质を异にするものである[1]

书は汉字圏文化であり、芸术である。芸术は制作鉴赏という2つの営みの上に成立する。书の芸术性は、汉字の成立の当初においてすでに予定されており、また、その后の长い书の历史がそのことを実证してきた。特定の个人がはっきりと芸术家としての评価を得たのは锺繇を嚆矢とし、その后、二王に代表される东晋の贵族たちによって美しく洗练され、芸术としての域にまで高められた。能书の鉴赏は古くからあったが、この东晋时代に至って书の造形に骨・肉・筋を见るようになった[2]。これは书の鉴赏における画期的な认识であり、书が人间表现のものと自覚され、纯粋に鉴赏の対象となったことを示唆している[3][4]

书体变迁 编辑

汉字书体は社会的・実用的な要求や美意识の変化によって変迁していった。代表的な书体は篆书・隶书楷书・行书・草书の5体で、楷行草という呼称があることから、篆隶楷行草の顺で书体が诞生したと思われることも多いが、出土文字资料の分析によれば、殷代の篆书戦国时代隶书前汉时代草书后汉时代行书、后汉末から三国时代にかけての楷书という顺序でそれぞれの発生が认められている。このすべての书体が一応完成されたのが六朝时代であり、その変迁をまとめると概ね次のとおりである[5]

甲骨文 金文
(殷)
金文
(西周)
金文
(春秋)
金文
(戦国)
简帛
(楚国)
简牍
(秦国)
‘说文’
小篆
‘说文’
籀文
‘说文’
古文
隶书 草书 行书 楷书
                               

篆书・隶书 编辑

 
秦の刻石石鼓文’(部分)

篆书という书体は広义には古文甲骨文金文)・籀文(大篆)小篆のすべてを含むが、狭义では小篆を指す。金文と小篆の中间的书体である籀文の代表的な笔迹は戦国时代の‘石鼓文’であり、书法史にとって大変重要な遗物となっている。そして、この大篆を基に始皇帝李斯に命じてつくらせたのが小篆であり、秦の刻石などに笔迹が现存する。

隶书は狭义では八分隶(単に八分とも)を指すが、まずは篆书の速书きからの古隶に始まる。古隶には波磔がなく、これに波磔などの装饰がついて八分となり、前汉时代すでに常用されていたことが近年の発见によりわかっている。汉代に入ると隶书は造形美を追求する方向と、本来の速书きを具现化する方向とに分かれていく。前者は后汉に建碑が流行したこともあり、‘曹全碑’や‘张迁碑’など芸术品として完成度の高い八分の刻碑が作られた。后者は章草を経て草书へと変化していく[6]

楷书・行书・草书 编辑

前汉の时、八分を速书きしてその点画を省略した章草と呼ばれる新书体が生まれた。章草には八分の特徴である波磔が残っており、その典型的な笔迹に皇象の‘急就章’がある。これを见ると章草は隶书を基盘とし、かつ草书はこれを発展させたものであることが一目了然で、后汉末期には章草がさらに略化されて草书となった。さらにこの顷、速书体として楷书行书も使用されるようになり、じつに后汉のうちに草书・行书・楷书の発生を认めることができる。

その后、锺繇の‘宣示表’に代表される楷书が、わずかに隶意を感じさせながらもその完成の域に达し、六朝时代北魏においては刻石や碑に相応しい峻険な六朝楷书という杰作が多く残された。日本で昭和时代から小中学校の教科书の手本に取り入れられた楷书の原形は欧阳询の‘九成宫醴泉铭’などの初唐の楷书で、これを见ると我々の用いている文字の基になっていることが分かる[6]

行书・草书は、东晋王羲之を中心とする贵族たちによって美しく洗练され、その王羲之の名笔には行书の‘兰亭序’や‘集字圣教序’、草书の‘十七帖’などが知られる。その他の草书作品としては、智永の‘真草千字文’、孙过庭の‘书谱’、懐素の‘自叙帖’があり、‘十七帖’と‘真草千字文’は独草体、‘书谱’は连绵草、‘自叙帖’は狂草体という形容でその特徴が表现される[6]

正体 编辑

正体(せいたい、正书体・标准体とも)とは、各时代の正式书体のことである。周代は籀文、秦代は小篆、汉代は隶书、そして六朝时代は楷书が正体に升格する。金石などに文字を刻するのは永久に遗こすことを目的にしているため、使用される书体はその时代の正体である。

行书・草书は正体を速书きするための俗体(补助体とも)として位置づけられ、正体に升格することはなかったが、隶书の俗体として成立した草书は、逆にそのもとになった隶书に影响を及ぼして行书の発生を促し、行书もまた草书とともに隶书に影响を与えて楷书発生の要因となった[7]

书法家 编辑

书法家の代表は、王羲之(书圣・大王)、锺繇后汉张芝(草圣)、东晋の王献之(小王)、初唐の三大家盛唐颜真卿宋の四大家明末董其昌王铎清代邓石如赵之谦などが挙げられる。

初唐孙过庭は、‘书谱’の中で王羲之の言叶を引用して、“多くの名书の中で、锺繇の楷书と张芝の草书は群を抜いてよい。その他は観るに足りない。”と记し、さらに张芝の草书は王羲之より优れていることを羲之自身も认めていると记している。また、王献之は父の王羲之とともに二王と称され、南朝では王羲之よりも王献之が贵ばれた。

历代帝王中、第一の能书といわれる唐の太宗は王羲之の书を爱好し、有能な书法家を重く用いたことにより初唐の三大家(欧阳询虞世南褚遂良)が辈出するなど、书の黄金时代を现出するに至る。この三大家によって楷书は最高の完成域に到达された。初唐の三大家に薛稷を加えて初唐の四大家と称すが、初唐の三大家に颜真卿を加えると唐の四大家と称すので注意を要する。また、欧阳询・颜真卿・晩唐柳公権赵孟𫖯を楷书の四大家とも称す。

颜真卿は王羲之と共に中国书法界の二大宗师とも讴われ、以后、颜真卿の追従者が多くあらわれる。宋の四大家もその影响を大きく受け、このうち苏轼黄庭坚米芾の三大家は唐以来の技术本位の伝统的书法を退け、创作を主とする书芸术を打ち立てた。そして、これは明・清以后の近代书法の方向を示すものとなり、その代表的な継承者は、董其昌・王铎などで、连绵を多用した行草体长条幅という新しい书の作品様式として完成させた。现在、日本の书法展などで最も多く使用される纸面形式はこの縦形式の条幅であり、これを一般化させた王铎らの业绩は大きい。

书流の変迁は、1つに张芝、锺繇から二王を顶点としてその伝统を夸る帖学の流れであり、もう1つは篆隶から出て北碑を眼目とし、颜真卿に起因する反王革新の碑学の流れである[8]。この碑学を研究する碑学派は清代の隆盛期に勃兴し、后期には主流となった。碑学派の代表は邓石如・何绍基・赵之谦の3人である。

用笔法の変化 编辑

汉代书法の発达がはじまり、の芸术としての书法がその第一歩を踏み出すことになる。その重要な点の一つに用笔法の変化がある。

篆书の时代の用笔法は一般的に笔管を垂直に立てており(直笔)、この方法は古隶前汉ごろまで続くが、隶书が完成される后汉の时代になると、笔管を手前に倾けてきたことが横画の幅の広がりや起笔の形などからわかる(侧笔)。これは、前汉时代まではまだがなく、木简竹简が用いられ、片手に笔を、片手に简を持って书いており、直笔になるように両手で调整が行われた。しかし、后汉に纸の発明があり、机上に纸を広げて书くようになると笔管と纸に45度の角度がつき、无理して直笔になるように人差し指を上げたりする方法も考案されたが、自然と侧笔を用いるようになった。そして、三国西晋时代を経て东晋时代には、さらに半ば右方向に倾いていった。これが王羲之书法で、书は无限の変化を内包する线条芸术となり、中国の伝统的书法として日本にも伝わった(日本の书法史#奈良时代を参照)。しかし、清代碑学が勃兴すると北碑の书法(直笔)が盛んになり、これが中国の正统的书法として现在に至っている[9][10][11]

书の时代性 编辑

近世の书法理论において书の特质をの4つの时代に区分し、“晋の书は自然の风韵を贵び(晋韵)、唐の书は书の技法を贵び(唐法)、宋の书は意趣の深さを贵び(宋意)、元・明の书は姿态のおもしろさを贵ぶ(元明态)。”と表现している。これは梁𪩘(‘评书帖’)と冯班(‘钝吟书要’)の论であり、书の时代性のほぼ一定した见方となっている。しかし、清の书についてはまだ论じたものがなく、中田勇次郎はいつも清学という言叶を続けていた[12]。“清の书は考证的な学问を贵ぶ。”と解釈できる。

先史 编辑

今から约5000余年前、汉民族が西北から黄河沿岸に移り住み、ここに农业牧畜を営んだことにより、黄河流域は文化の中心地となった。そして、この地に汉字が生まれ、中国の书法が始まる[13]

文字の创成 编辑

 
インカ帝国の结縄

人类はまず身振り・手真似による思想感情の伝达から始め、その后、言语を作ったと想像される。次にその言叶を记录する必要が生じ、そのための符号、つまり文字のようなもの(书契)が生まれた。‘易経’の繋辞伝(けいじでん)下に、“大昔は縄を结んでうまく调整した。后世の圣人はこれに変えて书契を使った。”[14] とあるように、最初はの结び方で记录する结縄といわれるものが使われ、つづいて絵画的な方法を用いた。しかし、これはまだ文字ではない。文字は古代の文化圏のうちでも最も高い文化段阶に达したところだけで成立し、それは言叶を视覚化し形象化したもの、すなわち象形文字であった。

それから永い间に几多の淘汰を経て、世界有史以来、発生した文字の种类は200余种にわたっており、现在でもその50余种が使用されているという。ただし、その多数の文字の根源をなすものは、ナイル河畔に発达したエジプト文字チグリス川ユーフラテス川の辺りに発生した楔形文字、黄河流域に生まれた汉字の3种である[6][15][16]

しかし、エジプト文字と楔形文字は纪元前后に相次いで姿を消した。汉字以外の古代文字が灭んでいった原因は、その历史と文化の断绝によるものである。民族の兴亡がはげしくなると、文字は他の民族によって借用されることになるが、このとき异なる言叶の体系に适応させるために言叶と文字との直接的な结合を分离することが必要であった。そして文字は形象という本来的な意味を离れて表音化された。これがアルファベット化である。

エジプト文字が容易にアルファベットにその地位を譲りえたのは、その言语表记の上に、表音化による致命的な困难を伴うことがなかったからであろう。そして、文字がアルファベット化したとき、言叶と文字との结合という古代文字のもつ最も本质的なものは失われた。しかし、汉字は中国の言叶の性质からみて、このアルファベット化に非常な困难を伴う。汉字は単音节语を用いる中国人にとって最も适合した表记法であり、今もその特质を持ち続け、言叶とともに生き続けている[16][17]

汉字の创成 编辑

 
苍颉

纪元前2500年顷の黄帝の时代、史官であった苍颉が鸟の足迹からヒントを得て初めて文字を创成したという记事が‘说文解字’・‘淮南子’・‘四体书势’などにある。これが一般的な汉字创成说であり、后世、鸟迹文字(ちょうせきもじ)とか蝌蚪文字(かともじ)とか呼ぶものである。しかし、これは确実な史证がないため伝说にすぎない。このようにいずれも个人の独创とすることは中国文化史の特异な点である(中国の书法理论#书体の创始者を参照)。

今日、最古の汉字として确実なものは殷代甲骨文字である。ただし、甲骨文字が中国における汉字の起源ではない。汉字は自然・人事の现象を絵画的に表现した象形文字に端を発しているが、甲骨文字は纯粋な象形文字ではなく、すでに少し発展した段阶のものである。董作宾は、“甲骨文の原形文字は更に1500年前に溯るであろう。”という[18][19][20]

甲骨文字は殷代后期の遗物であるが、それ以前に汉字が使われていた可能性を示すものとして、陶文(とうぶん)がある。中国の新石器时代[21] に陶制の容器があるが、その侧面や底面に汉字の原初形を想像させる符号のようなものがあり、纪元前5000年顷のものといわれる半坡遗迹などから発见されている。これを陶文、または刻画(こくかく)符号と呼ぶ。陶文を现在の汉字とを直接结びつけることは难しいが、年々出土报告があり、今までに约2,500件ほど报告され、その内、殷代前期から中期に相当する遗迹から见つかった陶文には甲骨文字と同形のものが含まれていることがある[22][23]

三代 编辑

  • 三代(纪元前2100年顷 - 纪元前221年)
    • (纪元前2100年顷 - 纪元前1600年顷)
    • 殷(商)(纪元前1600年顷 - 纪元前1050年顷)
    • (纪元前1050年顷 - 纪元前221年)

三代とは、夏・の2000年の长きに亘る时代をいう。夏の时代の作に‘禹王の碑’があるが、后世の赝作と断定されている。殷代に入って甲骨文や古铜器の铭(金文)が多量に残っている。周代には、多数の金文や‘石鼓文’(籀文)などがある。このように、三代の文字は甲骨文・金文・籀文の名称があるが、これらすべてを古文と称する说と、籀文が创始される以前の甲骨文・金文を古文とする说がある。本项では后说に従う[24][25]

编辑

 
甲骨文

王朝は纪元前1600年顷、初代の天乙(汤王)に率いられて河南省の黄河流域に成立し、周辺の小势力を支配下におさめ、次第に大国化していった。そして、19代の盘庚が都を河南省安阳殷墟)に迁してから大いに势力を振るい、30代の帝辛まで続いた。甲骨文はこの时代の后期の遗物である。甲骨文に次いで古いものに殷代の金文がある。金文とは青铜器の铭文で、周代のものが一番多い[26][27][28]

甲骨文 编辑

甲骨文とは、确认できる最も古い文字で、亀の甲罗や马・牛などの骨に占卜の记录として刻られた文字(卜辞)である。殷代の文字は甲骨に刻されている甲骨文および少数の金文を除いてほとんど出土がない。木简の文字が甲骨文に确认できるので、それらによる文字记录がすでに行われていたと推测されるが现状では出土がない。

この文字のほとんどは锐利な刀で獣骨に直接刻したために直线的なものが多く、画数の少ない简洁な文字である。これらを用いてかなり复雑な文章がつづられている。甲骨文は神意を伺うための神圣な手段であり、人々の日常生活には无縁の存在であったが、この卜辞の解読により、殷人の生活もかなり明らかになった[25][28][29][30]

甲骨文の発见・発掘
光绪25年(1899年)、当时、国子监祭酒[31] の地位にあった王懿栄マラリアの発作に苦しみ、その特效薬として北京の薬屋で売られていた竜骨を服用していたが、その骨の上に刻されているものが古代文字であることを刘鹗と2人で発见した。王懿栄は古代金石学にも通じた学者で収蔵家であり、费用を惜しまずその竜骨を买い求めたが、翌年、义和団事件の责めを负って自杀し、彼の竜骨は刘鹗の手に托された。光绪29年(1903年)、刘鹗は王懿栄旧蔵の竜骨と私蔵の竜骨5000片のうち、1058片の拓本を精选し、‘铁云蔵亀’と题して刊行したため、甲骨文が初めて学界の注目されるところとなった。当时、その竜骨の発掘场所は骨董商以外には知られていなかったが、数年后、殷墟の彰徳の西北にある小屯と呼ばれる村落一帯から出土していた亀甲や獣骨が竜骨の正体であることが确认され、その后、甲骨の発掘が盛んに行われた[20][32][33][34][35]
甲骨学
 
孙诒譲
中国政府は民国15年(1926年)10月から殷墟において中央研究院による本格的な学术调查と発掘を开始し、今までに见つかった甲骨片は约10万点に达した。また、殷王の大墓や墓群の存在が明らかになり、‘史记’が伝える殷王朝の系図がほぼ历史的事実であることを示すなど、殷代研究の贵重な史料となっている[28][32][33]
発掘とともに甲骨文字の判読も进められ、优れた著述が刊行された。孙诒譲は光緖30年(1904年)に‘契文挙例’を著し、 甲骨文字が殷代の占卜を行った文字であることを证明した。これに罗振玉(‘殷虚书契考釈’)、王国维(‘戬寿堂所蔵殷虚文字考釈’)、日本の林泰辅(‘亀甲獣骨文字’)らが続いた。甲骨文が発见された时、极めて短期间に解読が进んだのは、金石文の研究の蓄积があったからである。特に金文の文字は甲骨文と时代が重なるものがあり、字体も近似する。
甲骨文の字数は3,000近くがそろい、‘甲骨文编’に正字として录するものに1,723字ある。指事象形会意仮借に分类される字が多く、形声に分类される字が少ない。董作宾はこれら甲骨文字を5期に区分した(董作宾#甲骨文字の时代区分を参照)[20][33][36][37]
殷の社会
殷王朝は祭政一致の国家であり、人々の行动はすべて神の指図を受け、その神意を伺うために盛んに卜占を行った。王朝の运命をほとんどその卜占にかけていると思われるほど王朝の公私の生活全般にわたり占っている。その卜占の方法は、加工した甲骨の里面に火をあてて灼き、表面にできた亀裂の状态によって吉凶を占うというものであった。そして、その结果から巫祝王としてのが判断を下した。この一连の内容を记した卜辞には农耕仪礼が数多く记されており(“雨”に関する卜辞が多い)、これを殷王朝の関心が主要生产手段である农耕に向けられていた结果であるとして、殷代农耕社会说の论拠の一つとなっている。现在この说が殷代牧畜社会说を退け定说とされている[23][28][38][39]
卜辞の本质
殷の古い时期の遗址から文字が记されていない卜骨が出土しているため、獣骨による占卜は文字と结びつく前の时代からすでに行われていたとされている。つまり、文字がなくても占卜は可能であった。にもかかわらず殷后期に现れた占卜の辞を刻した甲骨文は、吉凶の予占だけでなく、占卜の结果からの王の判断と、それが事実となったので王の占断が正しかったことの证明にまで及んでいる。
古代にあっては、言叶言霊として的な力をもち、人々は言叶によって神话を创り出した。神话の时代には神话が现実の根拠であり、现実の秩序を支える原理であった。しかし、古代王朝が成立して王の権威を现実の秩序の根拠に移行させるにはその事実の证明が必要となった。そして、王の行为を时间と事物に定着して事実化することが要求され、これに応えるものとして文字と占卜とが结びついた。文字は言叶の咒能を吸収し、定着し、持続するためのものであった。よって、卜辞の目的は、王の占断の神圣性を保持し、顕示することにあったのである。実际に殷王が绝大な権力をもって王朝に君临していたことは、地下のピラミッドといわれる壮大な殷代陵墓の遗构により容易に想像できる。そして、王は最も神圣なものとして、すべての祭祀仪礼は、その神圣性を证明するためにあったといっても过言ではない[40][41][42]

金文 编辑

 
金文(‘小臣艅犠尊铭’)

殷・周时代には各种の青铜器が作られ、この时代を青铜器文化という。この文化は中国の古代文化を特色づける最も重要な遗品であり、千有余年にわたるこの文化の历史は、中国古代の历史であるともいえる。そして、その青铜器の表现と制作技术は、他のどの文化民族の青铜器よりも优れ、とりわけがその最も代表的な青铜器とされた。よって、これに刻したり、鋳したりした文字を钟鼎文(しょうていぶん)といい、金文ともいう。甲骨文の书风が直线的で线质は锐利で単调であったのに対し、金文のそれは曲线的で线质には逞しさがある[25][32][43][44]

殷代中期には、1字から20字程度の文字を鋳込むようになり、周代に入ると制作の由来や目的を文章にして鋳込むようになった。现存する青铜器の文字は、すべて器の内侧、またはその他の表面に鋳込まれており、この方法は周代にまで継承された。青铜器のうち铭文を有するものの大部分は、神および祖先を祭る仪式のための祭器である。この铭文には、鋳型にほって鋳出した鋳铭と、鋳造された青铜器の上に刀でほり込んだ刻铭との2种类がある。殷・周の金文のほとんどは鋳铭であり、戦国时代になって武器などに刻铭が现れる[23][32][45]

殷代の図象と文字との接点
字数の少ない殷代の金文は、絵画的で文字とはいえないようなもの、つまり図象と呼ばれるものが中心である。この时代はすでに文字が出来上がっているので、図象は文字とは异なる体系をもつ。図象は王朝的秩序に対応する身份(氏族の标识)などの象徴であり、すべての氏族の図象の体系は、そのまま王朝の支配形态を表している。そして、図象标识が固有名词としてその氏族名と対応するとき、それは氏族名を示す文字となる。図象は文字ではないが、図象标识として用いられるものに书法的意识が加えられると、そのまま文字となるのである。文字は図象のような前段阶を几重にも経験しながら、文字の体系にたどり着く。
旧来の说では図象は殷代の遗物と考えられていたが、近世の研究により図象の中にも周代初期のものがあり、両者の间にそれほど明确な区别はないことがわかっている。これらの図象は、前述のように文字の起源や成立に関わると考えられ、古文字研究者の重要なテーマとなっている。その総数は四千数百にのぼり、重复を除外した殷周青铜器全铭文数の半ばを占める。図象以外の殷代の金文は、第5期の甲骨文字に近似している[32][45][46][47]

甲骨文や金文は、现在の汉字の祖形である。しかし、文字としてはすでにかなり発达した段阶にあり、更に始原的な文字が発掘される可能性を秘めている。

また、中国の书法は直笔(中锋)による强い笔线を正统としているが、甲骨文や金文には线に锐さや力强さを感じることができる。近年、甲骨文や金文が书法や篆刻の作品に取り入れられることも多くなっている[48][49]

编辑

 
金文(‘散氏盘铭’)
 
簋(き)
食物を盛る器[50]
  • (纪元前1050年顷 - 纪元前221年、书法家笔迹
    • 西周(纪元前1050年顷 - 纪元前770年[51]
    • 东周(纪元前770年 - 纪元前221年)
      • 春秋(纪元前770年 - 纪元前403年)
      • 戦国(纪元前403年 - 纪元前221年)

周王朝を建てた农耕部族が兴ったのは、殷の支配地域の西のはずれ、现在の陕西省渭水盆地であり、ここで诸侯を纠合して急速に势力を拡大した周は东方の殷を灭ぼした。いわゆる“殷周革命”である。その年代は诸说あるが纪元前1050年顷と考えられている。甲骨史料によると、殷朝の22代の武丁が周侯を伐つことを占っており、すでに殷を胁かすほどの势力となっていたことがわかっている[28]

周代になると政治や社会制度の転换に伴って甲骨文の使用は急激に衰え、青铜器の制作が盛行した。そして、豊かな笔意を持ち、装饰的な书体の金文が主流をなし発展した。一方、青铜器が大型化し、これに伴って铭文も长文を记すようになった。‘毛公鼎’は31行、496字あり、その最多である。このように、周代の文字资料はほとんどが古铜器の铭文で、この内容を集めることによって周代の历史が浮かび上がり、‘尚书’や‘史记’の伝える内容と比较あるいは补完することができる[6][34][36][43][52]

文字の地域的変化
 
卣(ゆう)
酒を入れる器
 
秦の刻石(‘石鼓文’)
周は殷の文化をそのまま受け継いだため、周代初期の文书は殷末となんら相违が认められないが、やがて周の领域が広がるにしたがい、书风の地域的変化が生じた。さらに、春秋时代戦国时代になり、各地域の独立性が高まると书风の地域的変化は著しく、字画の构成にも不统一があらわれ(戦国文字)、文字の通用に非常な混乱が生じた。これが后に始皇帝が全国の文字统一政策を行った原因となったのである[53]
铭文の目的と书风の変化
殷代は神を信じ、亀卜によって启示される神の意志により政治を行った。よって、殷代の祭祀に用いられた铜器の金文は素朴で新鲜であったが、周代の祭祀は仪式を重んじて、民族の団结をはかるという政治社会的な目的のために行われるようになった。自然、金文の文字も厳格で形式化する倾向があり、字の大きさや配列も整然となり、伸び伸びとしたところが失われた[53]
书法の成立
春秋时代から戦国时代に下ると、印文(じいんぶん、印章の文字)や货布文字(货币の标记)なども出现する。そして、この时代に特に注目すべきものとして、前者の玺印文や武器などの中に鸟书という鸟などを组み入れた非常に装饰的な字体が混じっていることが挙げられる。これは汉字が単に人间の意思を伝达する符号であることを脱して、その美しい形态によって人间の目を喜ばせるものにまで成长したことを示している。中国书法はこのころに成立したといってもよいであろう。また、货币に文字が鋳込まれたことによって、文字が民众の目にも日常的に触れるようになった。かつては王や一部の贵族たちが使用するものであったが、いまや庶民のレベルにまで一般化したのである[53][54][55]

大篆 编辑

周代の末期から、文字を石に刻した资料があらわれる。数多の石刻中で中国最古のものが‘石鼓文’である。これは书法上の最大の资料で、古来、西周宣王时代の太史の史籀の书であるとし(中国の书法理论#大篆の创始者を参照)、世に籀文(ちゅうぶん)、また秦の小篆に対して大篆とも呼ぶ。しかし、最近ではそれよりも年代を下げて秦の献公11年(纪元前374年)とする唐兰(とうらん、1900年 - 1979年)の说が最も有力である。大篆は、金文と小篆の中间的书体であり、文字の构成が図案的、装饰的で美しく、完成された篆书の代表的なものである。‘石鼓文’の刻字が后世、篆书の源流を开き、呉昌硕がこの専攻で有名になるなど、书法家第一の法则となった[25][43][56]

编辑

 
小篆(‘秦の刻石’)

戦国时代、戦国の七雄と呼ばれる7つの强国()があり、各国が王号を称して独立大国の意志を表明し、天下の霸権を争った。纪元前246年に秦王政(后の始皇帝)が即位すると形势が急速に変动し、秦は纪元前230年に韩を、纪元前228年に赵を灭ぼした。続いて纪元前225年に魏を、纪元前223年には広大な领土の楚を、そして、纪元前222年には燕を灭ぼし、その帰途に斉を灭ぼした。かくして纪元前221年に秦は中国の历史で初めての统一国家となったのである[57]

秦王政はこれまで最高位であった王に代り、皇(おお)いなる天帝という意味で皇帝の称号を采用し、と称することを决めた。初代皇帝(始皇帝)は、つぎつぎと统一国家の体制を固める政策を打ち出した。その创出された诸制度の功绩は极めて大きく、特に郡県制にもとづく中央集権制を布いて広大な领地を统治した政治形态は、清朝にいたる2000年以上にわたり継承された。

また、権势と命令の施行を彻底させるために文字を统一する必要があり、始皇帝は丞相李斯に制定させたという小篆正体として定めた。その一方で、小篆を简略化して速く简単に书ける隶书古隶)が补助体として使用された[58][59][60]

小篆 编辑

始皇帝は李斯に命じて、长い间、诸地方で使われていた各种の文字を整理统一して使用の利便を図った。王国维によると戦国时代に通行していた文字は、古文籀文とに大きく分けられ、古文は秦以外の东方の6国で使用され、籀文は西方の秦で使用されていたという。始皇帝はこの籀文を基础にしてそれを简略化し、统一を図ったのである。これが小篆(秦篆・玉箸篆とも)で、前代には见られぬ均整のとれた端正な书体であり、縦长の美しい姿态は、いかにも新兴势力を象徴し、始皇帝の威厳を示すがごとく荘重で力强い。秦の刻石権量铭がこれに当たる[58][59][61][62]

秦の刻石 编辑

始皇帝は统治が轨道に乘ったのを见定めると、文武百官を従えて天下を巡幸し、旧6国の人民に皇帝の威光を知らしめるために各地に自分の颂徳碑を建碑した。その文章は‘史记’に详しく、その刻文まで収录されている。峄山泰山琅琊台之罘之罘东観碣石会稽の7刻石がそれであるが、そのうち原石が残存しているのは泰山と琅琊台の2刻石である。泰山の石は原石であるが、字の方は后世の复刻とされているから、原石原刻は琅琊台だけである。この美しく品格の高い刻石の书はすべて李斯の书といわれ、古来、小篆の典型として尊重された[59][63][64]

権量铭・诏版 编辑

 
小篆(‘権量铭’)

始皇帝は文字の统一ばかりでなく、度量衡・货币なども统一した。そして、度量衡の重さを示す分铜の“権”、容量を示す“量”、货币などの表面に诏书を小篆の文字で刻した。おそらく李斯の自书であろうともいわれ、篆书の范とすべきものである。また、木制のものには长方形の铜板に文字を刻したものをうちつけた。この板だけ残っているものを诏版(しょうばん)という[65][66][67]

字书 编辑

字书として、李斯は‘苍颉篇’を作り、中书令赵高は‘爰历篇’を作り、太史令胡毋敬(こむけい)は‘博学篇’を作ったと伝えられ、これを三仓という[59]。それ以前の字书として周代に史籀が著したとされる‘史籀篇’があったが、これらの新しい字书が通行することにより、字画の统一はさらに确かなものになったと考えられる[62][68]

隶书 编辑

汉字の书体を初めて示した‘说文解字’の序文に、秦の书体として8体が记され、最后に隶书体を取り上げているが、隶书は汉代のものとする异论があった。しかし、1975年に始皇帝时代の云梦秦简という竹简が発掘されて、この时代に隶书の原形ができ上がっていたことが证明された。隶书は秦の正体でなかったため、永久に残る金石や碑刻には使用されなかったのである。

秦は大帝国であったために公文书も膨大な量に及んだと考えられるが、始皇帝が制定した正体の小篆は、字形は美しいが书写に时间がかかり実用には不便であった。ここに円から方へ、曲线から直线へと省略整理され、书写に便利な新书体が生まれた。これが隶书であるが、最初に现れた隶书を古隶と呼ぶ。古隶の次に出现するのが、今日一般に隶书と呼ばれている八分である。

后汉の王次仲が小篆や古隶を改変して八分を作ったと书法理论にある(中国の书法理论#八分の创始者を参照)が、新资料の発掘により前汉时代の八分の笔迹が発见されて王次仲の伝说は完全に否定されている[61][69]

古隶 编辑

古隶(これい)は、篆书から八分に移る过渡期のもので、挑法・波磔もなく、点画の俯仰の弊もなく、篆书の円折を省いて直とし横としただけの古拙遒劲な书风で、いわば篆书の速书きから生まれたものである[70]

古隶は、程邈という人が罪によって狱中にある时、小篆を整理し简略化して作ったもので、始皇帝は大変喜んで直ちにその罪を许し、この文字を徒隶の事务用文字として采用したという伝说がある(中国の书法理论#古隶の创始者を参照)。しかし、これはあまり信赖できる话ではない[62]

古隶の代表的な刻石として、‘鲁孝王刻石’(前汉)、‘莱子侯刻石’(新)、‘三老讳字忌日记’(后汉)、‘开通褒斜道刻石’(后汉)、‘大吉买山地记’(后汉)などがあり、また、木简や陶器や铜器などにも多く见ることができる。素朴で何ともいえぬ亲しみを感じる书风である[71]

毛笔の発明 编辑

古来、毛笔蒙恬によって発明されたという。蒙恬は万里の长城を筑いた功により管城に封ぜられたので、笔のことを管城ともいう。しかし、前述の殷墟から発掘された甲骨文中に笔で墨书されたものが発见されているので、蒙恬は笔の改良をしたのであろう。いずれにしても、この毛笔の発明改良によって文字の美的表现が著しく进展したことは事実であり、八分などの波磔は毛笔でなければ表现するのは难しい[72][73]

编辑

始皇帝は纪元前211年に5回目の东方巡幸に出発したが、途中で発病し、翌年50歳で死去した。以后、秦の政治は完全に人々の期待を里切り、纪元前209年に早くも反乱が始まった。陈胜・呉広の乱は中国史上最初の农民反乱であり、つづいて刘邦项羽によって秦は纪元前206年に、わずか3代15年で灭亡した。そして楚汉戦争の结果、刘邦が项羽を破り帝位についた。の高祖の诞生である。汉は纪元前206年から400余年に亘るが、前汉后汉に分かれる。汉代になると、隶书は篆书に代わって正体となり、碑刻にも使われるようになった。古来より、秦篆汉隶といい、隶书研究に汉代は必须である[74][75]

前汉 编辑

 
章草(‘平复帖’伝陆机书)
 
汉简

前汉の时代は文字资料が非常に少なく、数少ない刻石によると小篆から古隶への変迁が确认できるだけであった。しかし、近年、敦煌地方から発掘された汉简によって当时の通用文字を知ることができるようになり、それによると前汉から八分が存在し、古隶とともに盛んに使用されていることがわかった。一方、‘说文解字’の序文に、“汉兴って草书あり。”とあるように、この时代には章草と呼ばれる実用的、能率的で芸术性豊かな新书体も生まれ、常用された[70][75][76][77]

隶书の正体への升格
第7代皇帝武帝のとき、当时の通行书体であった隶书が篆书に代わって正体となった。これは武帝が董仲舒の进言を受けて儒教国教としたことに起因する。儒教の経书伏生の言を鼂错らが隶书で书写したもので、汉代においては古文に対して隶书を今文と呼んでいたことからこれらの経书は今文経と呼ばれ、今文経による学问を今文学と総称した。儒教を国教とした际、今文学が官学となり、これにともなって隶书が正体となったのである[78]

章草 编辑

章草(しょうそう)は、史游が隶书を略して创始したという(中国の书法理论#章草の创始者 (书断)を参照)。章草は八分を速书きして、その点画を省略し、八分の方形なのに比べて円形に近いものになっている。波磔は残っているので今日の草书(今草とも)よりも古意があり、主として尺牍などに用いられた。今草は章草を略したもので、后汉の张芝が创始者という(中国の书法理论#草书の创始者を参照)。しかし、章草も今草も决して一人の力で生まれたものではない。汉简によると、章草は八分と前后して兴っているので、八分の自然の変化と见るべきである。章草の书き手として、史游・张芝の他に、后汉の章帝锺繇の皇象などが有名である[70][77][79]

新资料の発掘 编辑

汉简 编辑

20世纪初头、オーレル・スタインスヴェン・ヘディンなどによる中央アジア探検によって、前汉以来の肉笔资料である汉简(かんかん、汉代の木简)が発见された。はじめ、スタインによって敦煌汉简が、その后、ヘディンによって居延汉简が発见されたが、これらの木简の中に前汉の纪年がある八分隶が含まれていた。ここにおいて、古来からの“八分は后汉からのもの”とする定说は根底から覆された[75][80]

马王堆汉墓の発掘 编辑

1972年初め、湖南省长沙市东郊の马王堆汉墓が発掘され、保存状态のよい遗物が出土した。この汉墓は、前汉初期の长沙国丞相轪侯[81]利苍とその妻子の墓で、夫人の遗体が腐乱しない软体のままの姿で発掘され、大きなニュースになった。出土した资料は帛书竹简木简印章など多岐にわたり、いずれも副葬品である。墨书による精彩な文字で、篆书から隶书にいたる过程を示す贵重な资料である。湖南省博物馆に収蔵されている[80][82]

长沙汉简
1972年、马王堆一号汉墓から出土した汉简であり、马王堆一号汉简ともいう。出土した竹简は312简、文字は1简に2字から25字で、総计2000余字あり、そのほとんどが副葬品の品名や数量を记した目录である。従来の汉简で年记のある最も古いものは、天汉3年(纪元前98年)の简であるが、この墓の造営がそれ以前であることは间违いない。なお、1973年には610简の出土があった[82][83]
马王堆帛书
1973年12月、马王堆三号汉墓から出土した帛书で、12万余字に及ぶ厖大な量である。帛とはのことで、が普及するまでは竹简や木简などの他に绢が使用されていたことを证明している。绢は保存が困难で伝来するものは稀であり、重大な発见となった。内容は、天文星占に関するもの、医学に関するもの、阴阳五行に関するものなどで、これらは前汉・文帝の12年(纪元前168年)の遗物とみられている。これに书かれた文字は、“篆书から隶书に至る过渡的な段阶にあるもの。”といわれているが、“篆隶中间书というはっきりしないものではなく、正しく整形した一书体に定着した新书体である。”との见解もある[80][84]

编辑

前汉は第7代皇帝武帝から第10代皇帝宣帝の时代が最盛期で、第11代皇帝元帝から王朝の统制力は低下する一方となった。この机に乘じて元帝の皇后の甥にあたる王莽が9歳の第14代皇帝平帝を补佐するために大司马、さらに太傅の地位についた。そして、元始5年(5年)にクーデターをおこして平帝を杀し、ついに汉の天下を夺うことに成功して始建国元年(9年)に国号をに改め帝位についた。

儒学者である王莽は儒教的な理想国家の建设を目指して各种の改革に取り组もうと考えたが、その政策は迷信的な阴阳五行说の多用と极端な复古主义に基づくもので、社会に不安を与え、各地に农民と豪族の反発を引き起こした。そして、地皇4年(23年)10月3日、王莽は农民の反乱军によって杀され、新は、わずか1代15年の短命な国家であった。しかし、この时代だけに造られた“货泉”という篆书体の文字が鋳込まれていた铜货が日本の弥生时代古坟から発见されている。また、官印は通常4文字など偶数の字数に刻されるが、新では阴阳五行说の影响か、5文字印が多い[10][85][86][87][88]

后汉 编辑

 
八分(‘曹全碑’(部分))

南阳郡蔡阳県の豪族で前汉の第6代皇帝景帝の子孙である刘秀は、王莽に対する反乱军として功绩をあげ、建武元年(25年)6月、推戴されて皇帝となり、洛阳に入って汉を再兴した。この王朝は后汉(东汉とも)と通称され、前汉(西汉)と区别される。

后汉の初代皇帝光武帝刘秀は、制度をすべて前汉に复し、儒教を国教とした。前汉の高祖は农民の出身で儒学者たちの说く空疏で実用を伴わない思想や学问を軽んじたが、光武帝は学问を修めた経学者であり、儒教の教养や徳目によって官僚を登用した。よって、学问をする者が増え、社会に新しい気风が生まれた[86][89][90]

后汉の书の特徴は八分が発达したことで、建碑が流行し八分の刻碑として现存するものが多い。隶书の全盛期というべき时代で、その美的価値を存分に発挥した。また、后汉末期には、章草が略化されて草书となった。さらにこの顷、速书体として楷书行书の新书体も使用されるようになり、かつ装饰的な飞白体までもが生まれた。このように、现在までに使用されているすべての书体は后汉末期までに具わっている[75]

草书 编辑

前汉に隶书の略から章草が生まれ、章草が隶意を失って草书になった。章草と草书の区别について、北宋黄伯思は‘东観余论’に、“凡て草书で波磔を分つものを章草と称し、そうでないものをただ草书という。”と记している。草书は行书の略のように一般に思われているようであるが、これは误りである。草书の中で、“我”・“无”などの字は、今の楷书や行书とは连络がなく、篆书や隶书と连络していることがその证明になるであろう[77][91]

行书 编辑

唐の张懐瓘の‘书断’上巻に、“行书なる者は、后汉の刘徳昇の作る所なり。即ち正书の小伪、务めて简易に従い相闻流行す。故にこれを行书という。”とある。正书とは楷书のことであるから、楷书から行书が生まれたとしているが、今日の出土文字资料の分析によれば、行书は楷书が行われる以前に草书と隶书の长所をとってこの时代に発生したとされている。ただし、これは后の行书と区别して、行狎书(ぎょうこうしょ、行押书(ぎょうおうしょ)とも)と称され、西域出土の残纸类に见られる。また行书は刘徳昇の作というが、その书は残存しないので不明である[92][93][94]

楷书 编辑

楷书は隶书からの変异であるが、行狎书や草书も隶书に影响を与え、后汉末から三国にかけての时代に楷书発生の要因となっている。新书体は速书きの需要から生まれる自然の変异であるが、当时の楷书・行书は现在の运笔法とはかなり异なり、相当に隶意が多いものである。なお汉の正体は隶书であるため、この补助として新しく生まれた楷书は后世、隶书または今隶と称していることが多々あるので注意を要する[75][77]

书法理论 编辑

书法理论とは、文字・书体・书史・书评・书法などを论じた著作をいう。后汉时代の书法理论に、赵壱の‘非草书’、曹喜の‘笔论’、崔瑗の‘草书势’、张芝の‘笔心论’、蔡邕の‘笔势’という著作があったというが、今伝わるのは、‘非草书’のみで、これが最古の书法理论である。‘非草书’には、“本来、速书のための书体である草书が惩りすぎて、かえって时间のかかるものになった。(趣意)”と记されている。これは草书の形骸化を非难した内容であり、当时それだけ草书が流行していたと推测できる[95][96][97]

纸の発明 编辑

は后汉の蔡伦元兴元年(105年)に创制したという。‘后汉书’巻78・宦者列伝第68の蔡伦伝に、“(前略)古来より书契の多くは竹简に书かれ、缣帛[98] を用いたものを纸といったが、缣帛は高価で、竹简は重く、ともに不便であった。蔡伦の造意は、树肤・麻くず・ぼろきれ・鱼网を使って纸にすることで、元兴元年にこの制纸法を奏上した。和帝はその成果を褒め、これより広く用いられるようになり、天下の人々は“蔡侯纸”(さいこうし)と称した。”と记している[99]

この発明は世界における纸の创制で、その后、ヨーロッパに伝わって西洋纸になり、日本に伝わって和纸になった。この発明が文化の进展はもとより、书法界に利便を与え、书写の进歩向上を助长し、后汉に数多くの能书法家を辈出した。ただし、蔡伦は本当の纸の発明者ではなく、古くからあった技术の改良者であったことが现在では认められている[100][101][102]

三国 编辑

 
三体石経

后汉末期、黄巾の乱によって后汉の力は非常に弱まり、建安5年(200年)を过ぎて曹操が実権を握って华北の地に霸権を确立したが、南方の地はその霸権をめぐって刘备孙権と争うようになった。天下统一の准备を整えた曹操は建安13年(208年)に南伐の大军を荆州まで进出させたが、孙権と刘备の连合军に赤壁の戦いで败れ、目的を果たさず华北一帯を支配するに止まった。

建安21年(216年)、曹操が邺都で魏王に封じられ、事実上の魏王朝を创始したが、延康元年(220年)に洛阳で病死した。同年10月、その子の曹丕は后汉の献帝から位を譲られて洛阳で即位し、の文帝となった。刘备は成都蜀汉を建国し、孙権も建业で、を建国してそれぞれ帝位についた。天下を3分する三国时代の始まりである。ただし、三国とはいっても后汉の设けた13州の内、魏が9州、呉が3州、蜀汉が1州という领有で、魏は経済的にも文化的にも最高に発达した地域を有した。よって、三国の文化は主として魏において発展が见られたが、他の国では特に述べる事柄はない[103][104][105][106]

この时代は戦乱が打ち続いた时代であり、また、建安10年(205年)、后汉の献帝を拥立していた曹操が建碑禁止令を発令したため、刻石で现存するものは少ない。汉代は陵墓が重んじられ、碑の建立が盛んであったが、曹操は陵墓の筑造が経済を圧迫しているという理由から建碑を禁止し、魏においてもこの禁令がそのまま実行された。そのわずかな诸碑により书风の変迁をみると、汉の隶意を継承しながら徐々に楷书に移り行く隶楷中间の体といえる。‘谷朗碑’・‘葛府君碑’などがその例である。

この时代に楷书の名迹(法帖)を数多く残した魏の锺繇は杰出しており、汉に生まれた楷书は锺繇によって完成の域に达したということができる。特定の个人がはっきりと芸术家としての评価を与えられるようになったのは锺繇あたりからで、これは书法の芸术的认识が高まったことをよく示しており、引き続き东晋、さらに北宋へと引き継がれていくのである[105][107][108][109][110]

六朝 编辑

司马炎は魏・呉・蜀の三国を统一し、洛阳を都として国をと号した。これが西晋の武帝である。后に晋王朝は一旦灭びて南方で再兴するが、都の建康が旧都より东に位置するため、东晋と呼ばれる。その后、戦乱は打ち続き、南北両朝に分かれて多くの国が兴亡した。一般の中国史での六朝と违い、书法史での六朝とは、晋から以后、北朝をも入れてまでを称し、南朝と北朝に大别する。秦篆、汉隶、三国の隶楷を経て、楷行草の书体が一応完成された时代である[111][112][113]

西晋 编辑

汉末の曹操による建碑禁止令に続き、武帝が咸宁4年(278年)に禁碑令を出したため、この时代の碑の遗品も极めて少ない。しかし、碑の建立ができなくなると碑を墓室の中に密かに建てるようになり、墓室は天井が低いので横に置く形の墓志が生まれた。これに铭文を加えたものを墓志铭という。墓志铭の芸术は北魏で盛行するが、この时代の‘张朗碑’などはその先駆をなした[113][114]

纸は后汉にはすでに発明されていたが、品质が悪く高価であった。しかし、晋代になってその生产技术が発达し普及し始めた。よって、20世纪初头のスタインやヘディンなどによって西域から発见された木简や残纸、特にその残纸には西晋などの纪年をもつものが多い。これらの木简や残纸が、隶书から楷书への変化の様子や、草书・行书の书体の変迁を研究する资料となり、それによると、汉代に生まれた章草と草书も晋代においてそのまま用いられ、楷行草书の実用化が进展したことがわかる[115][116][117]

东晋・五胡十六国 编辑

 
中秋帖王献之
  • 东晋・五胡十六国(301年 - 439年)

西晋は匈奴に灭ぼされたが、司马睿王导の补佐によって皇帝の位につき、南方で晋を再兴した。これより以后を东晋という。この时代、中国の北方では汉人や异民族が国を建て、短命な16の国が次々と兴亡していった。この5种の异民族(五胡…匈奴鲜卑)による130余年の混乱时代を五胡十六国という[118]

东晋 编辑

三国时代から西晋を通じて行书、草书が行われ、南方に移った东晋の贵族たちによって、さらに美しく洗练されてゆく。碑刻に乏しいが刻帖は豊富であり、この时代の法帖としては王羲之のものが最も多い。当时は特に书法を尊重し、绅士の一资格として书をよくしないと上流に交わることができないという风潮があった。东晋の最初の丞相の王导が南下に际し、锺繇の‘宣示表’の真迹を身につけていたことは有名であり、これは能书を鉴赏する风尚を示している。

江南に居住するようになった贵族たちは、政権を掌握するとともに、広大な荘园を所有して経済的にも豊かな生活ができた。佳丽な地である江南の风景は绝佳であり、书の発达にこのような风土の関系も见逃すことができない[9][119][120][121]

书圣・王羲之
王羲之の出现によって书法は芸术としての域にまで高められた。王羲之は、楷行草いずれも极致の域に达した人で、古来、中国第一、书圣と仰がれている。また、王羲之を大王とも称し、王羲之の七男の王献之小王といわれ、父子を合わせて二王、または羲献と称される。王羲之の诸子はみな能书法家であり、王献之は最年少であるが书の天分に恵まれた。この流丽・温雅・端正な王羲之一派の书は后世の范とされ、日本には奈良时代に移入されて、日本书法の母胎ともなった[9][120][122][123]
兰亭序’(神龙半印本)王羲之

五胡十六国 编辑

この时代、北部中国地方は戦乱が多く、主として异民族の王朝であった。前凉の张轨と西凉の李暠は汉人であるが、あとの王はみな胡族である。この小国家の中には汉文化を摂取しているものもあったが、概して杀伐な游牧民であって、文化の程度も低く、书においても见るべきものはほとんどない。书法家も目立った业绩を残した者はいないが、この异民族国家の中で最も势力のあった前秦において、わずかな碑が残っている[124][125]

南北朝 编辑

 
瘗鹤铭
 
真草千字文’(部分)智永

东晋の武将の刘裕永初元年(420年)に宋王朝を建ててから、と3つの王朝が相次いで兴亡した。この4つの王朝を南朝と呼ぶ[126]

晋の南渡に乘じて华北の地方に多种の异民族が侵入し五胡十六国时代が続いたが、その中でやがて一番大きな势力をなしたのが鲜卑族の一种族である拓跋氏であった。この种族の出の拓跋珪が诸国を平定して魏王朝を建て、平城(现在の山西省大同市)に都を定めた。この魏王朝は三国时代の魏と区别して、北魏または后魏と呼ばれる。その后、北魏は、第3代皇帝太武帝のときに北凉を灭ぼして华北を统一し、江南の宋と対立した。この北魏が东魏西魏に分裂し、まもなく东魏は北斉に、西魏は北周にそれぞれ帝位を夺われた。のち北周は北斉を灭ぼして华北を统一したが、が北周と陈を灭ぼして天下を统一した。この北魏から北周までを北朝といい、宋から陈までの南朝に対応させている[127][128]

南朝の石刻として遗存するものは少ない。南朝で现存する法帖は、唐人の拓模といわれる少数の真迹本があるだけで、その他はすべて集帖に刻された墨拓ばかりで、原形を正しく伝えるものは少ない。北朝のものは豊富に遗存する。そのほとんどは18世纪后半以后に発见されたものである[129]

南朝 编辑

东晋の贵族の间に绝大な崇敬を集めていた二王の书は、引き続き南朝の各王朝でも爱好され、たえず座右に法书を置いて学书された。南朝宋では王羲之よりも王献之が贵ばれ、羊欣薄绍之孔琳之萧思话谢霊运などは王献之を学んだといわれている。斉・梁では二王ともに流行し、王导の孙の王珣の末子の王昙首とその子の王僧虔などが特に书名が高い(王氏#王导を参照)。陈では王羲之の七世の孙の智永がでて王羲之の书法の复兴につとめ、后代に大きな影响を与えた。しかし、のちの唐代は南朝よりもむしろ北朝の伝统を受け継いだと见るべきであり、概して南朝は书のあまり振わなかった时代といえ、有力な书法家もほとんどいない[126][130][131]

北朝 编辑

 
‘元懐墓志’(部分)
北魏
北魏の初代皇帝道武帝は、平城に都を定めたが、第7代皇帝孝文帝は都を河南省洛阳に移した。この迁都から南朝の汉民族の文化を取り入れる汉化政策が始まり、汉人の风俗・习惯・言语、そして国家の诸制度にも汉人のものを采用した。それが自然と书にも反映して北魏の书が隆盛を极めた。この时期(迁都以后)を后期と呼ぶ。前期の书の遗物はほとんどないといってよい。
道武帝の建国以来、廃仏令が布かれていたが、第5代皇帝文成帝のときに仏教复兴の诏敕が発せられて、云岗石窟龙门洞窟などの巨大な仏像が造られるようになった。これら仏像に铭文が盛んに刻されるようになったのは后期以后のことであり、前期の云岗石窟の仏像に付随した文字资料は极めて少なく、后期の龙门洞窟には‘龙门二十品’などがある。
汉化されたとはいうものの、北魏では刻石や碑に相応しい书の工夫発展がなされ、その书风は南朝とは気风を异にする新しいもので、峻険でたくましい数多くの杰作が残された。一方、南朝では立碑が禁止されていたため、技巧において洗练された优美な书风を求めたが、概して衰退したといえる[127][128]
东西魏以降
北朝の书は孝文帝の代を顶点として、その后は次第に隆盛时の风格を失っていく。北魏の书が魏晋の古法を伝えているのに対し、东魏の书は南朝の书法に従っていてもその古意を失っており、ときに楷书の中に篆隶の法を交えるなど、奇异を好んでかえって后世、悪评を买っているものもある[127]

北碑南帖 编辑

清の阮元が六朝时代の书には南北両派があると称してから、南书、北书と二分して见る者が多い。北方には摩崖などの石刻が多く、そのため书体は楷书である。南方には法帖が多く、行书・草书を伝えている。そして、北方の碑・碣(北碑)を主として研究する者を碑学派、南方の法帖(南帖)を研究する者を帖学派と呼んでいる[123][132]

编辑

300有余年にわたる异民族による南北両朝の対立も、汉民族である江南の陈王朝を最后に、ついに北方民族の隋の文帝杨坚が南北统一を果たした。しかし、第2代皇帝炀帝は、苛酷な政治を行って人民を圧迫したため反乱により杀され、隋王朝はわずか37年で灭亡した。隋は南方の文化を取り入れ、王羲之を中心とする南朝の书法を重视した。また、炀帝は运河を开いて南北の交通を盛んにしたため、文化の交流融合がなされ、书においても南北多种多様な书风はいつしか融合统一された。この时代には刻石しか残っていないが、碑や墓志铭に数多くの杰作を见ることが出来る。その书风は北朝の书よりも温和になり、整斉・洗练されているのが特徴で、初唐の先駆をなした[133][134][135][136]

编辑

 
九成宫醴泉铭’(部分)欧阳询
 
雁塔圣教序’(部分)褚遂良

わずか37年の短命な隋のあとを受けて、真の统一王朝を完成したのが唐である。唐王朝を创立したのは李渊(高祖)であるが、その子の李世民(太宗)が建国の企画、実行をし、侧近に多くの名臣を集めての治世によって、贞観の治と称される太平の时代を筑いた。かくして唐王朝は中国4000年の历史の中、最も有力な王朝となり、日本の文物制度は主としてこの唐朝に范をとったのである[135][137][138][139]

初唐 编辑

太宗は隋以来の倾向に従って南朝の文化を基盘とした。特に太宗が王羲之を好んだために王羲之を中心とした技巧が练磨された倾向にある。太宗自身、历代帝王中第一の能书の称があり、初唐に多くの能书法家・书法理论家の辈出を见たのは、この帝によるところが大きい。そして、隋以来、温和で整い洗练されてきた书风は唐代になってますます発达し、ついにその黄金时代を现出している。その中で最も杰出したのは楷书であり、初唐の三大家などによる碑碣が多く残る。楷书は汉に始まり、六朝において练磨され、唐代で结実大成して、ついにその顶点に达した。后の时代に唐代の书迹に及ぶものはなく、永く后世の范となっている[135][137][138]

初唐の三大家 编辑

初唐に书法の名人大家が多数辈出されたことは古今にその例を见ない。中でも欧阳询虞世南褚遂良の3人の大家を初唐の三大家と称す。この三大家に至って、楷书は最高の完成域に到达する。また、三大家に薛稷を加えて初唐の四大家とも称す[140]。なお、初唐の三大家に盛唐の颜真卿を加えて唐の四大家と称す[141]

盛唐・中唐・晩唐 编辑

 
祭侄文稿颜真卿
  • 盛唐・中唐・晩唐(713年 - 907年、书法家笔迹书法理论
    • 盛唐(713年 - 765年)
    • 中唐(766年 - 835年)
    • 晩唐(836年 - 907年)

初唐の末期の书は、谨厳方正を主とし外见は非常に整ったものの表面的技巧に陥り堕落していった。盛唐の玄宗皇帝の治世は开元の治と称され、学问芸术を奨励したので唐朝の文化は最高潮に达した。この时、初唐の书风を革新し新生面を开いたのが颜真卿である。篆笔で楷书を书いて一世を惊かせた真卿は、王羲之と共に中国书法界の二大宗师とも讴われる人である。しかし、逆に书法の破壊者であるという正反対の评もあり、彼の书がいかに前代までとは异质の书であったかということがわかる。その他に、行书に李邕、篆书に李阳冰、草书に张旭懐素名笔が出た。晩唐の代表作家は、柳公権裴休である。柳公権は颜真卿から起こり、裴休は欧阳询から起こったので、共に楷书に优れている[135][142][143][144]

书风の発生と流行
书体は社会的・実用的な要求によって変迁し、书风は个人的・芸术的な冲动によって発生、流行するものだといえる。この时代から书法を师弟の间に顺次伝承するということが重んじられ、张旭や颜真卿を书法の祖师として祭り上げる风潮が起こった。そして、以后、颜真卿の追従者が多くあらわれ、日本にも大きな影响を与えている[142][143]

狂草 编辑

现行の草书(今草)は章草波磔がなくなったものであるが、今草になって连绵(连绵草)が可能となった。この连绵草を得意としたのが张旭懐素であり、连绵体の妙を极めた自在で美しいこの草书は狂草体と呼ばれる。この书风は后の黄庭坚祝允明らに强い影响を与えた[143][144]。但し、二王の书を尊ぶ同时代の人士には受容されず、当时は、杜甫のような新兴の士から支持を受けるにとどまっていた[145]

五代・十国 编辑

唐は黄巣の乱によって急激に衰微し、后梁によって灭ぼされた。その后、が兴起するまでの50余年は、北方で5国が兴亡し、その他に大小10もの国があったので、この时代を五代十国时代という。乱世であったため文芸は衰え、优れた能书法家が少なかったが、杨凝式一人が杰出していた。唐の正整な书が流れ伝わっていたが、やや方向を転换し、宋の飞动的な文字に移ろうとする过渡的な时代である[146][147][148]

宋・辽・金 编辑

 
呉江舟中诗巻’(部分) 米芾
 
伏波神祠诗巻’(部分)黄庭坚

宋は、五代の最后の王朝、后周の将军の赵匡胤が天下を统一して初代皇帝(太祖)となってから约320年间に亘った。しかし、167年间続いた后、いったん灭び、后に南方で再兴した。初めの时代を北宋といい、再兴してからを南宋というが、この2つの期间は、政治・社会・文化の上から大きい変动があり、书の上からも区别される[149][150]

北宋 编辑

宋が天下を统一するに当たって、まず、唐の制度にならって新しい国家の建设が进められた。しかし、晩唐人が法に缚られ、无気力におちた反动として、前代の形式美を破ろうとする动きが盛んになった。宋人は思索と情感により大胆に个性を表现し、自由奔放な新様式の书风を生んだ。そして、行草体に妙を竞うようになり、碑刻も行体に移行したことがこの时代の特色である。また、古名迹の保护としてか、‘淳化阁帖’が刻されたのもこの时である。平和で豊かな时代であった反面、军事的には无力で、北方の异民族契丹の建てたに侵入されるようになり、第9代皇帝钦宗のときに辽に代わって北方を支配していたに灭ぼされた[149][150][151][152]

宋の四大家 编辑

北宋の书
戦乱で荒廃した北宋初期の文化は、五代や十国の人たちによって移入された。第2代皇帝太宗の书法の师の王著と、宋初期第一の书法家といわれた李建中は、ともに后蜀からきた人で、‘说文解字’を校订した徐铉南唐からきた人である。はじめは唐の模仿による保守的な书风から始まったが、第4代皇帝仁宗の顷から革新的な动きが起こり、颜真卿杨凝式を基盘とした独创的な书法家が生まれた。その代表が宋の三大家といわれる苏轼黄庭坚米芾であり、これに蔡襄を加えて、宋の四大家とも称す[152]
宋の四大家
 
蜀素帖’(部分) 米芾书
蔡襄
仁宗の顷、宋朝第一の书法家と称せられ、その书は楷行草の各体をよくし、行书が最も优れ、小楷がこれに次いだ。概して伝统派の本格的な书を书いているが、大字は颜真卿の书风であり、宋の颜真卿とも称された。また、その中に宋代の豪放縦逸な书风の先駆をなすものを含んでおり、蔡襄の出现が后の革新的な宋の三大家を生む素地となった。なお、本来の四大家は蔡襄ではなく蔡京との说もある。
苏轼
中国第一流の文豪であるが、书にも一见识を备えた。书は二王からはじめ、のち颜真卿・李邕を学んだ。楷行草をよくし、特に大字に笔力を见る。书の中に人间性を确立し、他人の书を模仿することを排し、技巧よりも独创性を尊んだ。この说は师の欧阳脩から出て、さらにこれを彻底している。苏轼は黄庭坚や米芾より少し先辈であったため指导的な地位にあり、特に思想的に彼らに与えた影响は大きい。苏轼は颜真卿の革新的な立场を理想とし、黄庭坚と米芾はこの考えを発展させた。
黄庭坚
苏轼の人物を尊敬し、その门で书を学び、晩年には张旭懐素高闲の草书を学んだ。黄庭坚は、“书に最も大切なものは、魏・晋の人の逸気、つまり法则にとらわれず自由に心のままに表现することであり、唐の诸大家は法则にとらわれてこれを失ってしまった。张旭・颜真卿に至ってこの逸気を再现した。”と言っている。黄庭坚の代表作の‘黄州寒食诗巻跋’は、苏轼の‘黄州寒食诗巻’の跋であるが、跋というよりも苏轼の书と妙を竞っているような感があり、杰作とされている。
米芾
书画がうまかった上に鉴识に优れたため、第8代皇帝徽宗の书画の研究およびコレクションの顾问となり、非常に重く用いられた。その鉴识眼は中国史上最高といわれる。また、自らも収蔵し、临模に巧みで、晋唐の名迹をよく临模した。彼の作った摹本は原本と区别することができなかったという逸话がある。颜真卿・欧阳询柳公権褚遂良を学び、后に二王らの晋人を深く研究したが、彼ほど古典を彻底的に研究した者は稀である。书画についての著书も残し、今日でも王羲之や唐人の真迹を研究する上で最も重要な参考资料となる。三大家の中で彼の书は実力の点で最も优れている。
苏轼・黄庭坚・米芾の三家の共通点は、唐以来の技术本位の伝统的书法を退けて、创作を主とする书芸术を打ち立てたことにあり、これは明・清以后の近代书法の方向を示すものとなった[153]
黄州寒食诗巻’(苏轼书、右)とその跋(黄庭坚书、左)

集帖 编辑

 
淳化阁帖

宋の太宗は唐の太宗と同様に、二王の伝统を保持した。そして、淳化3年(993年)、敕命により王著が历代の书迹によって‘淳化阁帖’10巻を编纂したが、その半ばにあたる第6巻以下は、二王の书が集刻されている。この集帖は后世、集帖界の王者として君临し、书法界を裨益したことは诚に大きな功绩である。また、徽宗の美术の爱好と搜集が美术の隆盛を促し、书においては蔡京らに命じて‘淳化阁帖’をもとに‘大観帖’10巻を编纂させた[149][150][152]

南宋 编辑

南宋时代はもはや三大家を生んだ北宋后期の生気はなく、概して书法衰微の时代で、优れた书法家は生まれなかった。しかし、禅僧の间に苏轼黄庭坚张即之の独特な书风が流行し、これは日本の镰仓时代禅林にも流行した(详细は禅林墨迹を参照)。また、书法に関する研究书が多く刊行され、これらの着録が后世、书法界を益したことは大きいといえる[150][151][154]

辽・金 编辑

  • (916年 - 1234年)
    • (916年 - 1125年)
    • (1115年 - 1234年)

南北朝の顷から中国の北方に住んでいた契丹族の建てた国である。そして、段々と领域を広げていき、ついに宋と対立ほどに强大になった。この国は200年以上続いたが、后に强力となった金に灭ぼされた。金は女真族の建てた国で、辽を灭ぼし、さらに北宋をも灭ぼして中国本土淮河以北を领有した。両国ではともに独自の文字を作って汉字と并用した。この文字は、辽では契丹文字、金では女真文字という。金には皇帝の一人の章宗など多少见るべき书法家がいたが、両国ともに书法史上、特に重视すべきことはない[152][154]

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‘鹊华秋色図’赵孟𫖯

モンゴル族を统一しモンゴル帝国の初代皇帝となったチンギス・カンは、东は満洲から西はカスピ海北部におよぶ広大な地域を征服し、さらにを攻めた。しかしその途中の1227年、病に没した。そして、1234年、その三男の第2代皇帝オゴデイは、南宋と结んで金を灭ぼした。

チンギス・カンの孙で第5代皇帝のクビライは、 至元8年(1271年)にを建て、至元16年(1279年)、南宋を灭ぼしてついに中国全土を支配した。や金などの异民族の征服王朝が中国の伝统を尊重したのに対し、モンゴル人は概して汉人を冷遇し汉文化にも冷淡であった。そのモンゴル至上主义では人民の四等级[155] の体制と科挙の廃止などが実施され、汉人、特に南宋の地域の汉人を南人(なんじん)と呼んで极度に圧迫した。この时代は、こうした汉人の文化を黙杀した政策によって书の方面も沈滞した。

また、高い文化と豊かな富をもつ南人を国力に取り込めず、元王朝は人材不足を招いた。そこで南人にも贤才が求められ、ここに宋王朝の宗室であった赵孟𫖯ら24人が选び出された。

赵孟𫖯
赵孟𫖯は元王朝に仕えて栄达し、元王朝の书坛を代表する存在となった。元の皇帝も彼には敬意をはらったが、宋の宗室の出でありながら元に仕えることに葛藤の日々が続いた。赵孟𫖯は王羲之の书を最高とし、その伝统を守ろうとする复古调の雅健整正な书风を起こした。40代のときには王羲之の7世の孙・智永真草千字文临书に没头し、44歳のときに、临书した千字文の跋に、“この20年来、临书した千字文は100本に及んだ。”と记している。そして、宋の三大家らの个性的な书は、古法を軽んじ粗放に流れ、古法を荒廃に导くものと捉え、王羲之の书を次代に伝えた。
‘洛神赋’赵孟𫖯书

赵孟𫖯につづく鲜于枢邓文原などの书法家もこの复古主义を受け継ぎ、晋唐の书を目指した。その他に、杨维桢康里巎巎なども书名が高い。中でも色目人の康里巎巎の个性的な书法が异彩を放ち、赵孟𫖯に次ぐとの评価を得て人々はこれを宝としたといわれる。彼の楷书は虞世南、行书は二王と米芾を理想とし、晋人の笔意を得てその境地に达するものとされた。また、章草の名手とも知られ、その激しいタッチの章草の笔法は赵孟𫖯などには见られない激しい感情を表现している[156]

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‘行书诗巻’(部分)董其昌

元王朝の内政は、皇位継承をめぐる纷争と、国土拡大のための度重なる远征から财政难を招いた。また、元王朝の最后の皇帝は全くの无能で、诸方に起こった反乱を镇圧することができず、ついに汉人の朱元璋によって灭ぼされた。

异民族のモンゴル族を追放して约250年ぶりに汉人の天下を回复した明は、儒教を根干とする政策を彻底し、伝统的な汉文化を复帰させた。概して书法が兴隆し、多くの能书法家が辈出し、最も行草体の盛行した时代である[157][158][159][160]

明代の约280年は书の上から、初期(约120年、元王朝以来の复古主义を継承し伝统の书法が行われた时期)・中期(约80年、初期の惰性的复古色を一扫する新古典主义が诞生した时期)・末期(约80年、明代の革新的な书法の大成期)の3期に分けることができる。代表的作家は末期の动乱期に现れている[161][162][163][164]

初期
明初は王羲之以来の古典が尊重され、赵孟𫖯の书风に感化された状态であった。成祖は书を好み二王の书を学习させるなど古法书の学习を奨励し、それにつづく诸帝もみな书をよく学んだ。この时期に最も书名のあった人としては、王羲之の书法を宗とした三宋二沈(さんそうにしん、三宋は宋克宋璲宋広、二沈は沈度沈粲)がいる。三宋の中では宋克が最もすぐれ、草书と楷书をよくし、この楷书が沈度に受け継がれ、干禄体の基础となった。そして、沈度の书が成祖の好むところとなったことから朝廷の重要文书はすべて沈度に书かせるようになり、その弟の沈粲も兄の推挙によって重用され、二沈の称が天下に知れ渡った。この时期は概して晋唐の书に终始しているが、その中で宋克の章草や二沈の草书は逸脱した気风を备えたもので赵风ばかりではなかった[160][161][162][163]
中期
中期は商业が著しく繁栄し、中国第一の商工业都市となった呉中(现在の苏州)ではこの繁栄を背景に诗书画结合の芸术形式が普及し、また篆刻文人芸术として発展した。富を得た新兴层が书画を求めたため书画の価値が急腾し、官界に背を向け书画で生计を立てる文人(沈周文徴明祝允明王宠陈淳など)が多数辈出され、彼らは呉中派と呼ばれた。また、优れた鉴赏眼と见识をそなえ収蔵に热意を倾ける鉴蔵家が多数现れ、集帖・书画录が刊行された[161][162][163]
末期
明末は内乱が相次ぎで起こり、国家は疲弊と混乱に陥り、书をよくした人も政治的には极めて不运な人たちが多い。その苦悩と反抗の中にあって、まず董其昌は、王羲之以来の伝统书法の系谱に新鲜な生命の息吹を注入し、革新的な杰作を数多くのこした。董其昌につづく、张瑞図黄道周倪元璐傅山王铎らも深く书に心を寄せてその気概を示した人たちであり、その人物とともにその书が称赞されている。
明代の书は、おおむね宋の四大家を通して継承され、董其昌も苏轼の语によっており、王铎は董其昌の理论を実践している。连绵を多用した彼らの行草体は、特に长条幅という明初以来の新しい书の作品様式を完成させた。连绵草は王献之あたりに端を発し、张旭懐素も立派な作を残しているが、王铎・傅山・董其昌あたりで最高潮を示し、明末清初は连绵时代を画した。この时代の一番の実力者は王铎で、长条幅连绵行草作家の中でも特に杰出している[161][162][165][166][167]

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石鼓文呉昌硕

明は李自成によって崇祯17年(1644年)に灭ぼされ、大清[168] つまり清は康熙元年(1662年)中国全土を支配した。清朝は第4代皇帝に名天子の康熙帝が出て、満洲民族でありながら汉民族の伝统文化を尊重し、その复兴につとめた。また第6代皇帝の乾隆帝も‘淳化阁帖’を覆刻するなど皇帝が书に兴味を示したことから官吏や学者が书法を重んじるようになった。

学问の研究が非常に盛んになったこの康熙・雍正・乾隆3代の约130年の间は清朝文运の最盛期で、“康熙乾隆の盛世”とも称され、この间、‘古今図书集成’や‘四库全书’の编纂など、汉人学者主导による数々の大规模な文化振兴事业が実施された。この伝统文化を拡充する政策は考证学を盛んにし、金石学が新しく学术の主流に置かれる结果をもたらし、従来の法帖中心から碑石・金文に注目が移った。法帖を中心として书を研究する人たちを帖学派、北魏や隋の碑を研究対象とする人たちを碑学派と称しているが、清朝书法界における最も著名なことはこの碑学派の勃兴である。

清朝を书の上から区分すると、清初より雍正年间に至る初期乾隆嘉庆隆盛期、道光以后の后期の3时期からなるが、初期は帖学派が主流をなし、隆盛期は帖学が大成された时代であると同时に碑学が新しく兴り、后期は碑学派が主流となった时代である。

初期
王羲之を主とする法帖が全盛の时期であったが、深く书の伝统を支えていたのは明人であり、清代になってからも活动を続けた王铎は清代书法家の笔头といえる。傅山の独自のすぐれた作品は清代に入ってからであるが、彼は世に出ず亡命生活を送った。康熙帝は明の末期の代表作家である董其昌の书を好み、この影响によりこの时期は董其昌风の书が一般に流行した。康熙帝の后に即位した雍正帝は康熙时代からの文化事业を継続し、この雍正时代の书法界で最も活跃したのは、王澍张照である。
隆盛期
乾隆帝は祖父の康熙帝に并ぶ立派な天子で、清朝の経済は最も成长した时期である。书においては乾隆帝が赵孟𫖯の书を好んだため赵风が流行した。また、この时期に古典の文献的研究として実证主义を重んじる考证学が勃兴し、その具体的分派というべき金石学が起こり、三代六朝の古法の研究が考证的に行われた。ただし、考证学勃兴の背景には、清王朝が汉民族の统治にあたり、政治に直结する学问にしばしば弾圧を加えたことにより、学者たちの兴味が学问のための学问、つまり古典へと向いていった経过がある[169]
阮元书法理论南北书派论’・‘北碑南帖论’により南北朝时代から南方の法帖と北方の碑の书の相违が论じられ、北派(碑学派)の书法理论の根拠となり、また包世臣の‘芸舟双楫’が北派の书法理论に気势を加えた。元・明时代は行草书や细楷がほとんどであったが、碑学派によって久しく中绝していた隶书や篆书が复兴し、これに伴い明末から発达した篆刻が盛んになった。
帖学と碑学が重なり合ったこの时期に、清朝を代表する大家が辈出している。帖学派の最高峰である刘墉、碑学派の邓石如、碑学と帖学両派の翁方纲などであるが、特に邓石如の功绩は大きく、清末の篆书・隶书の名手(呉熙载杨沂孙赵之谦呉昌硕など)の指标となった。
后期
道光以后のこの时期は、康有为の碑学を尊重する书法理论‘広芸舟双楫’などもあって碑学の浸透と金石趣味が定着する中、书の表现は多様化に向かった。各体にわたって情绪豊かな作风を打ち立てた何绍基はこの代表であり、邓石如、赵之谦とともに碑学派の3代表とされている[170]

脚注 编辑

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  1. ^ 白川(文字逍遥) PP..253-256
  2. ^ “笔力があるものは骨を多くし、笔力がないものは肉を多くする。骨が多く肉がないものを筋书といい、肉が多く骨がないものを墨猪という。力が多く筋が豊かなものは圣(すぐれたもの)、力がなく筋がないものは病(不健全なもの)である。”(‘笔阵図’(原文)より)
  3. ^ 白川(文字逍遥) PP..261-262
  4. ^ 宇野 P.15、P.22(前付)
  5. ^ 书体の変迁の出典…铃木翠轩 P.23、木村卜堂 PP..87-96、小原 PP..10-12、福田 PP..25-26、城所 P.140、中田(书法理论集) P.47、永由 PP..44-48
  6. ^ 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 永由 PP..44-48
  7. ^ 福田 PP..25-26
  8. ^ 中田(书法史) P.187
  9. ^ 9.0 9.1 9.2 比田井 PP..105-106
  10. ^ 10.0 10.1 比田井 PP..63-66
  11. ^ 松村 PP..78-81
  12. ^ 中田(书法理论集) P.367、P.372
  13. ^ 铃木翠轩 P.9
  14. ^ ‘易経’繋辞伝下の原文
  15. ^ 藤原(绪论)
  16. ^ 16.0 16.1 白川(文字逍遥) PP..222-224
  17. ^ 白川(汉字) PP..5-7
  18. ^ 藤原 PP..4-5
  19. ^ 贝冢 PP..18-19
  20. ^ 20.0 20.1 20.2 宇野 P.16(前付)
  21. ^ 殷代前期からの青铜器时代以前を新石器时代といい、この时代の文化を仰韶文化という。
  22. ^ 浦野 P.22
  23. ^ 23.0 23.1 23.2 立命馆大学(白川静の世界I) PP..2-3
  24. ^ 藤原 PP..9-10
  25. ^ 25.0 25.1 25.2 25.3 铃木翠轩 PP..11-13
  26. ^ 引证错误:没有为名为suzuki14的参考文献提供内容
  27. ^ 藤原 P.10
  28. ^ 28.0 28.1 28.2 28.3 28.4 寺田 PP..14-21
  29. ^ 浦野 P.23
  30. ^ 白川(文字逍遥) P.228
  31. ^ 国子监祭酒(こくしかんさいしゅ)は、国立大学学长にあたる。
  32. ^ 32.0 32.1 32.2 32.3 32.4 比田井 PP..39-42
  33. ^ 33.0 33.1 33.2 鱼住(书の历史・殷〜唐) PP..16-19
  34. ^ 34.0 34.1 木村卜堂 PP..87-88
  35. ^ 白川(汉字) PP..7-8
  36. ^ 36.0 36.1 立命馆大学(白川静の世界Ⅰ) PP..28-29
  37. ^ 白川(中国古代の文化) P.223
  38. ^ 立命馆大学(白川静の世界III) PP..209-210、PP..212-213
  39. ^ 立命馆大学(白川静の世界Ⅰ) P.27、P.102
  40. ^ 白川(汉字) PP..2-3
  41. ^ 白川(汉字) PP..10-14
  42. ^ 白川(汉字) P.58
  43. ^ 43.0 43.1 43.2 藤原 PP..12-16
  44. ^ 白川(中国古代の文化) PP..285-286
  45. ^ 45.0 45.1 贝冢 PP..20-21
  46. ^ 白川(汉字百话) PP..10-12
  47. ^ 立命馆大学(白川静の世界III) PP..155-156
  48. ^ 立命馆大学(白川静の世界Ⅰ) P.34
  49. ^ 宇野 P.17(前付)
  50. ^ 西林(殷・周) P.73
  51. ^ 纪元前770年、13代の平王が都を镐京から洛阳に迁すまでを西周、それ以后を东周と呼んで区别する(寺田 P.27)。
  52. ^ 鱼住(书の历史・殷〜唐) P.25
  53. ^ 53.0 53.1 53.2 比田井 PP..46-48
  54. ^ 贝冢 P.25
  55. ^ 寺田 P.39
  56. ^ 比田井 P.51
  57. ^ 寺田 PP..40-49
  58. ^ 58.0 58.1 木村卜堂 P.90
  59. ^ 59.0 59.1 59.2 59.3 藤原 PP..17-18
  60. ^ 寺田 P.52、P.55
  61. ^ 61.0 61.1 铃木翠轩 P.18
  62. ^ 62.0 62.1 62.2 比田井 P.55
  63. ^ 贝冢 P.27
  64. ^ 寺田 P.54
  65. ^ 比田井 P.59
  66. ^ 藤原 P.20
  67. ^ 鱼住(书の历史・殷〜唐) P.45
  68. ^ 铃木洋保 P.33
  69. ^ 藤原 PP..21-22
  70. ^ 70.0 70.1 70.2 木村卜堂 P.93
  71. ^ 近藤摂南 P.81
  72. ^ 铃木翠轩 P.19
  73. ^ 藤原 P.23
  74. ^ 寺田 PP..54-57
  75. ^ 75.0 75.1 75.2 75.3 75.4 藤原 PP..24-26
  76. ^ 铃木翠轩 PP..20-21
  77. ^ 77.0 77.1 77.2 77.3 藤原 PP..39-40
  78. ^ 松村 PP..16-17
  79. ^ 铃木翠轩 P.31
  80. ^ 80.0 80.1 80.2 鱼住(书の历史・殷〜唐) PP..58-61
  81. ^ 轪侯(たいこう)とは、爵号。
  82. ^ 82.0 82.1 饭岛 P.759
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  85. ^ 铃木翠轩 P.22
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  96. ^ 西川(辞典) P.69
  97. ^ 铃木洋保 PP..114-115
  98. ^ 缣帛(けんぱく)とは、かとりぎぬのこと。かとり(缣)は、かたおり(固织)の约。帛は绢のこと。よって、かとりぎぬとは、目を细かく固く织った绢布である(広辞苑、详解汉和大字典)。
  99. ^ ‘后汉书’蔡伦伝の原文
  100. ^ 藤原 PP..42-43
  101. ^ 小野胜年 P.44
  102. ^ 寺田 P.90
  103. ^ 寺田 PP..94-95
  104. ^ 鱼住(书の历史・殷〜唐) P.78
  105. ^ 105.0 105.1 比田井 PP..87-90
  106. ^ 寺田 P.100
  107. ^ 木村卜堂 PP..103-104
  108. ^ 藤原 PP..44-46
  109. ^ 鱼住(书の历史・殷〜唐) P.109
  110. ^ 铃木翠轩 P.30
  111. ^ 铃木翠轩 PP..32-34
  112. ^ 藤原 P.48
  113. ^ 113.0 113.1 比田井 PP..97-98
  114. ^ 鱼住(书の历史・殷〜唐) PP..160-161
  115. ^ 木村卜堂 P.109
  116. ^ 鱼住(书の历史・殷〜唐) PP..80-81
  117. ^ 比田井 PP..101-102
  118. ^ 比田井 PP..103-104
  119. ^ 中田(书法史) P.68
  120. ^ 120.0 120.1 藤原 P.52
  121. ^ 宇野 P.23(前付)
  122. ^ 木村卜堂 PP..111-118
  123. ^ 123.0 123.1 铃木翠轩 P.35
  124. ^ 中田(书法史) P.66
  125. ^ 比田井 P.135
  126. ^ 126.0 126.1 中田(书法史) P.79
  127. ^ 127.0 127.1 127.2 中田(书法史) PP..83-86
  128. ^ 128.0 128.1 比田井 PP..154-156
  129. ^ 木村卜堂 PP..119-120
  130. ^ 比田井 P.142
  131. ^ 比田井 P.110
  132. ^ 藤原 P.49
  133. ^ 藤原 P.87
  134. ^ 铃木翠轩 P.48
  135. ^ 135.0 135.1 135.2 135.3 比田井 PP..169-171
  136. ^ 木村卜堂 PP..129-130
  137. ^ 137.0 137.1 日比野 P.97
  138. ^ 138.0 138.1 藤原 PP..91-92
  139. ^ 铃木翠轩 P.51
  140. ^ 木村卜堂 P.132
  141. ^ 江守 P.11
  142. ^ 142.0 142.1 比田井 PP..197-200
  143. ^ 143.0 143.1 143.2 铃木翠轩 PP..60-66
  144. ^ 144.0 144.1 藤原 PP..91-94
  145. ^ 神田喜一郎 P.163
  146. ^ 铃木翠轩 P.67
  147. ^ 藤原 PP..128-129
  148. ^ 外山军治 PP..116-117
  149. ^ 149.0 149.1 149.2 中田(书法史) P.125
  150. ^ 150.0 150.1 150.2 150.3 藤原 PP..130-131
  151. ^ 151.0 151.1 木村卜堂 PP..168-169
  152. ^ 152.0 152.1 152.2 152.3 比田井 PP..228-230
  153. ^ 宋の四大家の出典…中田(书法史) PP..127-129、比田井 PP..233-238、铃木翠轩 P.70、西川(辞典) P.54、藤原 PP..132-136
  154. ^ 154.0 154.1 比田井 PP..231-232
  155. ^ 第一级はモンゴル人、第二级は色目人、第三级は北方の汉人、第四级は南宋の汉人(鱼住(书の历史・宋〜民国) P.68)。
  156. ^ 元代の出典…木村卜堂 P.179、藤原 P.137、外山军治 PP..144-147、比田井 PP..252-254、铃木翠轩 PP..72-73、鱼住(书の历史・宋〜民国) PP..66-94
  157. ^ 铃木翠轩 P.74
  158. ^ 比田井 PP..254-256
  159. ^ 藤原 P.140
  160. ^ 160.0 160.1 鱼住(书の历史・宋〜民国) PP..95-103
  161. ^ 161.0 161.1 161.2 161.3 中田(书法史) PP..155-165
  162. ^ 162.0 162.1 162.2 162.3 中村伸夫 PP..140-141
  163. ^ 163.0 163.1 163.2 泽田(决定版 中国书法史) PP..129-134
  164. ^ 木村卜堂 P.182
  165. ^ 田中东竹 P.112
  166. ^ 西林(元・明) PP..136-139
  167. ^ 小坂 P.121
  168. ^ 1636年、后金が改名して大清と称した。
  169. ^ 松村 P.22
  170. ^ 清代の出典…木村卜堂 P.188、藤原 PP..145-146、中村伸夫(〔决定版〕中国书法史) P.147、比田井 PP..276-278、铃木翠轩 PP..79-80、内藤湖南 PP..218-219、中村伸夫(図说中国书法史) PP..166-167、须羽 PP..173-186

出典・参考文献 编辑

关联条目 编辑